ふるさと厚狭の政治家・細迫兼光

この日記で何度も書いているように私のふるさとは山口県厚狭郡山陽町(現在山陽小野田市)鴨庄という集落です。
この集落ではじめての国会議員で、昭和の時代を自分の主張を貫き通した政治家・細迫兼光さんのことを書いておきたい。

鴨庄は京・賀茂神社の荘園であったことからついた地名といわれ、古くからの農村集落で藩政時代は萩毛利家寄組(よりくみ:一門に次ぐ家格)の熊谷家の給領地であった。

細迫家はこの熊谷家の家老職を代々勤める家で、幕末に近い安政3年(1856)の熊谷家分限帳(ぶげんちょう)を見ると「御家老中定居」とあり「禄高28石5斗2合6勺」この頃既に鴨庄に定住していたと思われる。
ーーー熊谷家についてはこの日記に2019、8、16迄5回に分けて「熊谷家の変遷」として書いてきた。

細迫さんの略歴
・大正15年(1926)当時無産政党と呼ばれた「労農党」書記長に就任、その後党解散などを経て昭和3年(1928)新労農党立ち上げ書記長就任、解散命令と共に警視庁に検束、
・昭和7年(1932)治安維持法違反で検挙投獄、
・昭和16年(1941)鴨庄の区長、翌17年(1942)小野田市長、
・昭和21年(1946)衆議院初当選、昭和22年(1947)公職追放、昭和28年衆議院2回目当選社会党左派入党、昭和31年(1956)社会党国会対策委員長
・昭和41年(1966)政界引退(衆議院当選5回)
・昭和46年(1971)厚狭駅前寝太郎像の銘文を書く
・昭和47年2月死去76歳

私の生家から比較的近いところに今も細迫さんの家があり、立派な門構えと水堀のある大きな屋敷で、その周辺は子供の頃の遊び場といってもよいエリアだった。
堀は寝太郎伝説につながる用水路と接しており、時折鮒や小魚を釣るため釣糸を垂れていた想い出がある。

子供の頃は細迫さんの事績など知るよしもないが、遊んでいる最中に一度御本人を見かけたような記憶もある。

後年細迫さんのことを詳細に知ることになるが、私の政治信条とはだいぶ異なるものの、戦前戦後を通じ自分の信じる道に邁進されたふるさとの大先輩である。

細迫さんの血縁者や元秘書の方などが中心になり「人としての途を行くーー回想 細迫兼光」南の風社刊が2014年に発行されその社会主義政治活動の詳細を伝えている。
f:id:kfujiiasa:20210312171319j:plain

◎「歩き」で見かけたこれは何と言う花?
f:id:kfujiiasa:20210312172200j:plain
f:id:kfujiiasa:20210312172226j:plain