「本能寺前夜・西国をめぐる攻防」②変の原因

6月22日のこの日記に続いて、光成準治著「本能寺前夜・西国をめぐる攻防」の核心部分、なぜ光秀は本能寺の変を引き起こしたかについて著者の見方を整理すると以下のようになる。

1、四国・長宗我部氏と織田との決裂で、織田方四国経略の融和路線を推進した光秀は決裂の責任を問われる状況にあった。

2、対四国地方においても、対中国地方についても光秀と秀吉は信長の意向で競争ライバル関係に置かれており、秀吉は播磨(兵庫県)別所氏の敵対などで失敗をするも、その後の対毛利戦争での成功により信長の信頼を回復、光秀中心の対毛利融和路線も否定されつつあり、結果として秀吉の下で働かざるを得ない立場になってしまい、自尊心が多いに傷付く状況にあった。

3、同時期、武田討伐は完了、上杉も追い詰められており、関東、東北、九州の諸大名の多くは織田権力に服従の意向を示していることで、光秀が軍事指揮統括として新たな活躍の場を与えられる可能性は極めて低い状況にあった。

4、ライバルの秀吉と異なり失点回復の機会がない以上、かつての信長重臣佐久間信盛と同じく完全失脚が目前であり、信長が少数の警備で京都に滞在するという千載一遇のチャンスに賭けた。

本能寺の変は戦国最大の謎の一つといわれ諸説あるが、私は朝廷や足利義昭の陰謀説、秀吉の謀略説等の、光秀が他人の指示や教唆又は協力を受けて謀反に及んだとの意見には全く与しない。

光秀のような高い地位に自力で昇った人間が、他人に絡んでそのような大事を起こすはずがないと思うし、起こすなら必ず自分の意思が最優先されると思うからである。

また怨恨説についても、そのような感情だけで一族全ての命運が掛かる大事を引き起こすとはとても思えない。
光秀が置かれている織田家という組織の中を冷静に見渡すと、やはり今回の著者の見解はかなり説得力があると思われる。

朝日新聞カルチャーセンターでの笠谷和比古教授の講座でも最後にこの課題への見解が示されるはずであり、光成準治さんとの対比ができることを楽しみにしている。

近くの民家の軒先に咲いていた花
f:id:kfujiiasa:20200621104058j:plain