「登山大名」/「桃源郷」の春

日経新聞の連載小説は作家・辻原登さんの「陥穽 陸奥宗光の青春」が終わり作家・諸田玲子さんの「登山大名」が始まっている。

挿し絵

諸田さんは多作の歴史小説家であることはよく知っているがこれまでその作品は読んだことがなく、初めての出会いであり興味をもって毎日欠かさず読んでいる。

まだまだどのような成り行きになるのか読めないが、主人公は豊後国(ぶんごのくに・大分県)岡藩三代目・中川久清(なかがわひさきよ)で、「作者の言葉」を読むと、久清は九重連山のひとつ大船山を愛し何度も登山し山中に墓もあるとのことで、ここから話が膨らんで行くのだろうと想像している。

この小説のお蔭で過去の関連した史実など幾つかのことを思い浮かべることになり、それを以下に書いておくことにした。

これらを予備知識にして今後の展開を毎日楽しみにしている。

①中川瀬兵衛(せひょうえ)清秀(きよひで)

中川氏が歴史の表舞台で飛躍を遂げたのは久清の曾祖父・清秀の時代である。

中川瀬兵衛清秀は私も若い頃から注目していた人物で、実はこの「登山大名」が始まって、中川瀬兵衛の子孫が豊後岡藩主として明治維新まで続いていたことをあらためて知り、旧知に再会したような気持ちになった次第である。

清秀は摂津国(せっつのくに・大阪府)茨木を地盤にして池田氏、荒木氏に仕えた後、織田信長羽柴秀吉の臣下となり豪勇で知られた。

織田信長は清秀を味方にするため長男・秀政に娘を嫁がせ、羽柴秀吉は清秀と義兄弟の誓詞を取り交わした。

清秀は、秀吉が明智光秀を討った「山崎の合戦」でも奮戦し、続く柴田勝家と雌雄を決した「賤ヶ岳の合戦」で壮烈な戦死を遂げる。

播州三木城主

長男秀政は父の功績や四国・長宗我部攻めの功により秀吉から播磨国三木城13万石を与えられるが、朝鮮出兵時の事故の為死亡、秀吉の怒りを買い所領半減で弟の秀成が襲封した。

この後秀成は豊後・岡へ移封、関ヶ原でも東軍徳川方について明治まで続く岡藩7万石の初代となる。

先日2月16日のこのブログに播磨・三木城を訪れたことを書いたが、その折三木市立歴史資料館で三木城主の変遷表のなかに中川氏の名前を見つけて記憶していたことがここに来て役立った。

三木城天守

③荒城の月

有名な唱歌・「荒城の月」は土井晩翠(どいばんすい)作詞、滝廉太郎(たきれんたろう)作曲で知られる。

詞(詩)の方は一般的に仙台青葉城を想定しているとされる。

滝廉太郎は豊後士族の家系で、岡藩藩校跡に建てられた高等小学校で学んだ経歴もあり、「荒城の月」作曲のイメージは学校の裏に当たる中川氏の居城・岡城祉であるといわれる。

🔘今日の一句

 

山頭火とても成れぬと山笑う

 

🔘健康公園では李(すもも)等桃系の樹木が集まる「桃源郷」と名付けられた一角が春を告げている。