3月27日のこのブログに「秀吉の武威、信長の武威」を読み終えたことを書いたが、この本の中に私が長い間追いかけている中国の雄・毛利氏の九州豊後国(ぶんごのくに・大分県)を地盤とする戦国大名・大友氏との抗争が出てくる。
両者の対立は周防国(すおうのくに・山口県)地盤の戦国大名・大内氏の滅亡に遡る因縁がある。
天文20年(1551)大内氏家臣筆頭の陶隆房(晴賢)は主君大内義隆を自刃させ、次の当主に大友氏から養子を迎え大内義長とした。
毛利元就は天文23年(1554)大内氏陶氏と袂(たもと)を別ち、弘治元年(1555)厳島の戦いで陶晴賢を敗死させ、その勢いのまま周防国(すおうのくに・山口県東部)長門国(ながとのくに・山口県西部)に侵攻し大内義長は長府・功山寺で自刃、これ以後防長二州(山口県)は毛利氏の支配下となる。
以後毛利氏は大友氏の地盤である北九州を巡って長期にわたり抗争を繰り広げる。
とここまでは以前から良く理解していたが、戦国末期秀吉の天下統一が見え始めた時期、毛利氏三代目・輝元の時代までこの抗争が続いていることが史料をもとに記述される。
この時期九州の残る大勢力は島津氏と大友氏のみとなり、西九州の龍造寺氏を屈服させた島津氏は大友氏に圧力を加え大友氏の劣勢が明らかになりつつあった。
毛利輝元は豊臣秀吉への臣従を緩やかに進める事と併せ、島津氏と連携し大友氏を攻撃し北部九州を支配下に置くべく画策していた。
大友氏は九州で最も早くから秀吉に接近しており、大友氏の窮状の訴えを了とした秀吉は、毛利ー大友、大友ー島津間の和睦調停を指示、これを含めた九州停戦令が発布される。
その後大友、毛利、島津の諸氏の分割統治を基本にした九州の新たな国分け(勢力エリアの線引き)案が提示され、それは著しく島津氏に不利なものであった。
この為島津氏はこれまで同盟関係に有った毛利輝元に期待して大友氏側への軍事行動を止めなかった。
ところが輝元は秀吉に対する従属を強めて変節し、毛利-大友間の和睦を優先、秀吉の要求に従わない島津氏を攻めるいわゆる「島津攻め」に豊臣軍の部隊として九州へ出動することになる。
結末はよく知られているように島津氏の降伏、本領・薩摩国大隅国(鹿児島県)と日向国(ひゅうがのくに宮崎県)の一部が島津に残されて幕を下ろす。
(このとき九州・筑前国(ちくぜんのくに・福岡県)は毛利氏の一族・小早川隆景が領有することになる)
大変長くなってしまったが、今回今まで知らなかった毛利輝元時代の九州に対する一連の動きが図らずも見えてきて、幕末の薩長連合と似た毛利島津連合が画策されていたことがわかり、今後の基礎知識として役立ちそうな気がしている。
🔘今日の一句
薬売り子等へ置きゆく風車
🔘近くの施設のフェンスに咲いている初めて見る植物、画像検索ではハーデンベルギアというオーストラリア原産の種らしい。