山口県の歌あれこれ

①実家の兄と電話で話をしていたところ、最近山口県のローカルTV局で放送されている山口県の歌「みんなのふるさと」を一度YouTubeで聴くようにと紹介された。

何でも作曲者が兄の知り合いで同郷の旧厚狭郡山陽町(現山陽小野田市)出身の田村洋さんとのことで、早速聴いてみたが芹洋子さんの歌声と相俟って優しい穏やかな調べの曲だった。

♪︎♪︎空の青さに心はずませ
季節がめぐる山と海
自然のやさしさ小さなふれあい
希望と夢とみどりと花に
明けゆく山口みんなのふるさと♪︎♪︎

山口県の歌と云えば私が小中学生の頃には学校で唄っていた、現在まで唄い継がれている「山口県民の歌」がある。

少々古風な詞ながら力強い調子で半世紀を経た今でもしっかりと記憶に残っている。

♪︎♪︎錦帯橋はうららかに
秋吉台はさやかなり
秀麗の地に偉人出で
維新の偉業成せるかな
誇りと使命忘れめや
山口県の我らみな ♪︎♪︎

③最近の私のイチオシはシンガーソングライター・原田侑子さんが山口県の観光ソングとして方言を交えて唄う「愛しちょる山口」

♪︎♪︎ぼくらの住んどる 山口は
自然がいっぱい ぶちええとこ
萩焼 長州どり 角島(つのしま)もきれい
みんなおいでませ 山口
見ちょる 知っちょる 愛しちょる
見ちょる 知っちょる 愛しちょる
豊かな自然に囲まれた 山口は
また来たくなる 心のふるさと

・ぶちええとこ: 大変良いところ
・みんなおいでませ:皆さん来てください
・見ちょる知っちょる愛しちょる:見てる知ってる愛してる

懐かしい方言がとても心地よい気がしてくる明るい歌。

YouTubeで聴くと三つの歌それぞれに個性があり、子供の頃の記憶を呼び覚ましてくれるような気がしている。

◎用事で近くの市役所・出張所に行ったところ花が活けてあり、あまりに整っているので造花と思ったがほんものだった。
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厚狭毛利家代官所日記㉗文久2年⑨激動の前触れ

隣国の眠れる獅子・「清」国が英国に完敗したアヘン戦争(1840~42)は我が国の海防意識を一挙に高めたが、3面を海に囲まれた長州藩でも例外ではなく大調練(軍事演習)を行う等海防体制に注力していく。

厚狭毛利家は要衝・下関に給領地が近いため、早くから下関の防備担当とされ、朝廷と幕府が一致して定めた攘夷決行(外国船を討ち払う)期日・文久3年(1863)5月10日の時点では当主・元美(もとよし)は赤間関(あかまがせき・下関)海防総奉行として厚狭毛利家家臣や萩藩士を率いて出陣し討ち払いを指揮することになる。

このような状況下、民政を記録した代官所日記にも文久2年ごろからこの騒然とした民情をうかがわせる記述が見え始める。

文久2年(1862)5月5日の記録
吉田勘場(萩藩吉田宰判の役所)から要求のあった、異変(外国船来航等)があった場合の物資運搬用人馬を引き当てて置く件。
先日領内庄屋へ指示があったが、厚狭毛利でも必要になる(当主が役職に就いている)ので断りを入れさせたところ、天保15年の際は引き受けて貰っており今回も引き受けて貰わなければならない。
もしどうしても断るなら萩表に申し出て貰わなければ勘場ではどうにも出来ないとのことで、追々考える必要がある。

6月28日の記録
異変の折の人馬の件
健常者10人につき2人宛て出すのは弘化2年も同様であり是非にも引き受けるよう再度申し入れがあった。
評議の上どうしても断ることとした。
異変の折には厚狭毛利家でも人馬は不足で厚狭下津(しもづ)、郡(こおり)、の両村については除外するよう庄屋から書面で断るよう指示した。
併せて同様の趣旨を萩の遠近方(おちこちかた・担当職位)へも断るようにした。

この後同様の申し入れが船木勘場からもありこれも同様に断ったと記されている。断りはなし崩し的に認められたようで、厚狭の村々と船木の村々すなわち給領地内は厚狭毛利家から直接動員が掛かることになる。

その後の記録で、各々健常者20歳~50歳までの男子の人数調査があり厚狭は郡村、下津村、梶浦で計256人、船木は逢坂村、船木村で計530人、合わせて786人が動員の対象として登録され、下関攘夷戦争へと徐々に緊張が高まる。

先のブログでも触れたが相変わらず梶浦の村役人から、下関を通過する外国船の通報が代官所に逐次寄せられている。

◎幕末の激動期、TVや映画では侍たちが華々しく活躍することが常だか、この事例で分かるように結局少数の武士だけで成り立つものではなく、全体を支えているのは圧倒的多数の百姓町人である。
このような積み重ねが奇兵隊などの長州藩諸隊の創設につながるのだろう。

◎この事例のように長州では萩本藩と分家を含む給領地の領主との2重行政になっており、この後の軍制改革で庶民の動員も含め本藩が統一指揮する体制に改まり、四境戦争、戊辰戦争を戦い抜くことになる。

◎冬のホトケノザ、花は少ないが茎葉はしっかり繁茂している。


「乳のごとき故郷」

今年1月30日このブログに『映画「蝉しぐれ」と作家・藤沢周平』と題して藤沢周平さんのことを書かせてもらったが後日近所の図書館にいくと、たまたま同じ藤沢さんのエッセイ集「乳のごとき故郷」と出会い借りだして読み終えた。
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以前にも触れたが藤沢さんは山形県庄内地方鶴岡市の郊外の出身で「これほど故郷に執着する作家もめずらしい」と世間から云われるほど、歴史小説の舞台やエッセイの対象も故郷を扱ったものが多い。

このエッセイ集も題名の通りまさにほとんどが故郷のことに関するもので、読んでみて若き日に過ごした故郷への感情が半端でないことが良くわかる。

藤沢さんは25歳、故郷での教員時代に肺結核を患い東京多摩の病院に入院し以後ずっと故郷を後にして生活し時折帰省する事で故郷と向き合っている。
私も18歳で故郷・厚狭を離れ以後は時折の帰省で厚狭と繋がって来た。

故郷の方向は違えど「ふるさとは遠きにありて想うもの」という視点に立つと、この本に書かれてある心情の色々が極めて自分と重なって見え隠れする。

題名になっている「乳のごとき故郷」の意味合いについて次のように記されており何か自分のことを代弁して貰っているような気がする。
『エッセイの中に、自分の生い立ちと自分のまわりに母乳のごとく存在した風土、風習などを明示することで、私は新しい生き方に必要なアイデンティティーを確立出来たのだと思う。~~』

やはり人は生活し生き抜いていくためにアイデンティティーを確立することが必須条件であり、自分の過去を振り返ってみてもとても共感出来る。

藤沢さんが懐かしむ子供時代の行事のひとつが年に一度の「川干し」だが土地は違えど私にも全く同じ想い出が残っている。
私の方は「川さらえ」と呼んでいたが、年に一度上流にあり三年寝太郎の伝説が残る「寝太郎堰(ねたろうぜき)・大井手(おおいで)」をせき止め、この間に水路の補修や清掃を行うもので子供は水の減った水路の魚捕りに走り回り、日頃は滅多に巡り逢えない大物に出合う機会となる。

アスファルトの端で必死で頑張っているように見えるのはノゲシのような気がするのだが?
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小平奈緒選手お疲れさまでした。

昨日の五輪女子スピードスケート1000mは日本中が注目していたに違いない。
私も夕食の時間を少し遅らせてTVにかじりついた。

先ず高木美帆選手の金メダルに「おめでとう」と「大あっぱれ」。
団体追い抜き競技で金メダル目前のアクシデントがあり、見ている方もアッと凍りついてしまったが、それらをはね除け金メダルを取った姿は多分長く語り継がれることになるだろう。

体格に優るオランダ、カナダ、アメリカなどを抑え、さらにオールラウンダーとしてスピードと持久力を兼ね備えた滑走は、日本人の誇りと言っても過言でない気がする。
NHKの特集番組でもその努力する姿、苦悩する姿を観たがあの真摯な取り組みの結果と大いに納得した。

私がここ10年来ずっと応援している小平奈緒選手は1分15秒65で10位、
得意種目の500mでスタートから出遅れ17位に沈んだレース後の表情が、今まで見たこともないような暗く見えたので、「これは何かあるな」と思いこの1000mは見逃せないと思っていた。

滑りは変わらず不本意な成績に終わったが、レース後の表情はいつもの小平選手の表情があり自ら納得したような自分へ向けた拍手が見られ、私も大きな拍手を送ってしまった。

今朝の新聞で初めて知ったのだが1月に右足首を捻挫して右足が全く踏ん張れない状態に有ったらしい。
今まで小平選手が常々云っていた「勝ち負けじゃなく、競技に取り組む姿勢を示したい。」
を実践したレースに今も感動している。

年齢的な面もあり競技を続行するのか、後進への指導者になるのか、それとも第三の新しい道に転進されるのか岐路に立たれていると思うが、今までの個性、探究心、を生かして是非これからも活躍して欲しいと思っている。

◎今朝見たスイセンは今まで見た日本スイセンと違い花の上にさらに小さな花が咲いており初めて出逢った。
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「北上夜曲」

戦前に岩手県出身の若い学生二人が作詞作曲し、戦後マヒナスターズ、小林旭倍賞千恵子、ダークダックスなど色々な人が唄ってヒットした懐かしい歌が北の初恋を歌った「北上夜曲」で、ゆったり落ち着いた調べが記憶に残っている。

♪︎♪︎ 匂い優(やさ)しい 白百合の
濡れているよな あの瞳
想い出すのは 想い出すのは
北上河原の 月の夜♪︎♪︎

今のTV番組で一番好きなものは? と問われたらNHKの「新日本風土記」と答えそうな気がしている。
各地方やテーマについて風俗、歴史、文化、産物などをその土地の人々の暮らしと併せて紹介する番組で、時間と熱意が懸けられた取材にいつも感心しており、また時折入る松たか子さんの語りにも味がある。

今回の題が「北上川」でこの題を番組表で見た途端に「北上夜曲」を連想してしまった。
東北一番の大河で南北249km 岩手県盛岡から宮城県石巻へと流れ、全国でも4番目の長さになるらしい。

流域が有数の米どころでもあり舟運の大動脈として発達、米を350俵も積める大型帆船が行き交ったとのこと。
私のふるさと厚狭川でも年貢米等を積んだ船が通った記録が残っているが、せいぜい高瀬舟程度でありどうも規模が違うようである。
北上川では今は観光船にその名残があるらしい。

美味しさでは名物の色々な餅、カワガニ(モクズガニ)、鮭、しじみ等を使った料理が出て来て、懐かしく食べたくなるようなものばかりだった。

盛岡で昔の舟運の姿をよみがえらそうとする地元商店街の店主の集まりが紹介されたが、当然と言えば当然ながらその集まりで突然皆が「北上夜曲」を唄い出した。
やはりこの歌は地元に定着しているんだなとなぜか感動してしまった。

暮らしに役立つきれいな川があり、その川を詠った歌が全国に知られ地元でも定着している。地元にとって嬉しく誇らしいことに違いない。

◎大阪の東側、奈良・大和地域とを隔てる信貴(しぎ)生駒(いこま)連山、朝歩きの途中振り返ると稜線がくっきり見えた。
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今週の歌壇、俳壇

◎今朝歩いていると大粒の雪が舞ってきてあわてて早く切り上げた。冬将軍の最後のあがきであればいいのだが。

毎週1度日経新聞に掲載される、読者が投稿する中から選ばれた短歌の歌壇、俳句の俳壇は楽しみに必ず見るようにしている。
自分自身は短歌も俳句も詠まないので、想像する範囲に限りがあり、どうしても自分に良く理解できる感情や語句についつい好みや興味が片寄ってしまう傾向がある。

今週掲載された短歌24首、俳句24首のなかから各1首、今の自分がとても共感できるものに出会った。

『いくばくか 本の代金 受け取りて
後悔少し 古書店に置く』
―――浜松 佐藤 一央 さん

・私も自分の本の始末をしたところだが、本好きにとって蔵書の始末をするのは非常に辛くて後ろめたい気がするのを実感した。
「後悔少し」という気持ちが良く理解できるし、それを古書店に置いてくるのがまたいい。

『厳寒や 日中読書 誕生日』
―――三田 池永 徹 さん

・ゴルフをする朝はいつもより早く起きなければならず冬も同じである。特に冬の朝は目覚ましに嫌々起こされながら
「ゴルフの約束などするのではなかった!家で本でも読んでいる方がよかった!」と思ってしまう。

実際にプレーを始めると面白くなるのが常の事ながら、寒い日に家で好きな本を読める事ほど幸せなことはない気がして、それが誕生日ならなおさらだろう。

◎鉢植えされているが菜の花に良く似ているようだが、先日教えてもらった桜草のような感じもある。
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厚狭毛利家代官所日記㉖文久2年⑧無宿人の悲哀

江戸時代の戸籍は、キリシタン禁制目的も兼ねて寺毎に檀家、壇徒(門徒)の名簿を作り宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)と呼ばれるものが用いられた。

通常出生から死亡までこの人別改帳に載ることになるが、
飢饉(ききん)や親からの勘当等で故郷を出奔せざるを得なかった場合等々、色々な事情でこの人別改帳から外される無戸籍者が出てこの人達を無宿人(むしゅくにん)と呼んだ。

映画などでやくざや博徒などを無宿人と呼んだりするが、一般生活者のなかにも無宿人が存在した。
江戸時代後期になると都市近郊などで無宿人が増え、幕府は無宿人というだけで捕らえて佐渡金山に送って強制労働に従事させたり、近郊から追い払ういわゆる所払いなど過酷な政策を行った。

ふるさと厚狭を治めた厚狭毛利家給領地内の民政を記録した代官所日記文久2年(1862)の記録にこの無宿人に関する記事が載っており、各地大名領国でも過酷な取り扱いを受けていたことがわかる。

8月晦日(みそか・末日)の記録を現代文に直す。

『舟木新町 佐治郎という者の貸家に居る髪結いを生業とする無宿・権兵衛という者、不審な点があるとの事で今朝方勘場(かんば・萩藩船木宰判の役所)から召し捕られたと庄屋から届け出があった』

『これを受け身元保証人、佐治郎、その組合の者迄、無宿者を留め置いた心得の筋を詮議するため士分2名を現地出張を指示し供述書を袋に入れて持ち帰った』

閏8月2日の記録

『髪結い無宿・権兵衛の件
無宿者を留め置いたことはご法度であり、身元保証人、借り宿の世話人、家主等の心得について役人を以て究明したところ何れも申し開きもなく恐れ入るとのことを書き上げて申し出た』

『権兵衛のことは格別不審なことはなく、早速領内から追い払うようにしたところ勘場からは郡境払い(厚狭郡内からの追放)との指示があった』

◎職に就いて何も悪いことをしていない者を、ただ無戸籍だと云うことで追放処分にしてしまうことなど、現代から見ると人権無視の暴挙のように映るが、これが当時の社会統制の現実であった。

◎これはピッタリ来ないがイベリスの仲間のような気がする。
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