9月11日のブログに「伊達騒動と原田甲斐」という本を読んだことを書いた。
この中にふるさと厚狭に関わる内容が突然出てきて調べ直すと、以前入手した資料の内容とも符合し大いに驚くことになった。
伊達騒動が勃発した当時の仙台藩は幼少の第4代藩主・伊達綱村(幼名亀千代)であったが、生母は三澤氏の出自で初子ということが「伊達騒動と原田甲斐」に記されその概略は以下の通りである。
初子の先祖は出雲(島根県)三沢の住人でのちに長門(山口県)に移り祖父の代に近江に移った。~~十三歳で父母に死別した初子は叔母に養われ二代藩主・忠宗の正室・振姫の侍女であった叔母を介して振姫に仕えた。
初子の容姿と聡明さをみた忠宗は綱宗の側室にしようとしたが、叔母は初子が名家の子孫であるとこれを断り正室ならばおうけするとこたえ、忠宗は綱宗と初子を結婚させた。
私は2023年7月~8月にかけてふるさと厚狭に足跡を遺した三澤為虎やその一族のことを「戦国武将三澤氏物語」という資料をもとにこのブログに5回に分けて書いたことがある。
その資料を見返すと「第三部 三澤氏ゆかりのあれこれ」の章に「三澤初子」という記述があり、「伊達騒動と原田甲斐」に記された内容とほぼ同様の記述と併せ、初子は厚狭を一時給領地とした三澤為虎の曾孫であることが記されている。
初子は男子に恵まれ長男・綱村は伊達本藩62万石の4代藩主、また次男村和(むらより)は水沢伊達家第5代から陸奥中津山3万石藩主、更に三男宗よしは伊達政宗の庶長子を祖とする宇和島伊達家10万石の3代藩主となった。
初子は綱宗と結婚したとはいえ、家格の違いから正室とはなれなかったようだが、次代藩主の生母ということで藩からは正室並みの扱いを受けたようである。
歴史の本を読んでいると時折嬉しい出逢いに遭遇することがある。
🔘今日の一句
故郷の梨に甘苦を噛み締めて
🔘施設介護棟の屋上庭園、キバナコスモス