7月7日の続き
三澤氏の出自は信濃国(しなののくに・長野県)で、木曽義仲をルーツとする説もあるらしいが、現在では同国伊那谷(いなだに)に居住していた清和源氏を祖とする飯島氏とされている。
承久(じょうきゅう)3年(1221)後鳥羽上皇と鎌倉幕府・北条氏が争った「承久の乱」では飯島氏は幕府側に属して軍功を挙げ、その恩賞として出雲国仁多郡三沢庄の地頭(じとう)職を与えられた。いわゆる新補地頭(しんぽじとう・東国御家人で承久の乱を経て新しく西国の地頭になったもの)である。
当初飯島氏は代官を三沢庄に派遣していたが、「長府藩・藩中略譜」に依れば三澤氏初代となる為長が乾元元年(1302)三沢に入部、三澤姓を名乗ったとされる。
三澤為長は嘉元元年(1305)三沢の中心にそびえる鴨倉山(標高418.5m)に三沢城を築いて移った。鴨倉山は現在では要害山と呼ばれているとのことである。
この城は別名「亀嶽城」とも言われ、出雲の国人領主が築いたもののなかでは大規模なものとされ、中世の山城の代表的な城跡として島根県史跡文化財の指定を受けているそうである。
「戦国武将 三澤氏物語」所載の三沢城跡想像復元図
🔘余談になるが三沢のある奥出雲と聞いて思い出すのは松本清張さんの「砂の器」の舞台となったところで、ズーズー弁や亀嵩(かめだけ)の地名が謎解きのキーのひとつであった記憶がある。
奥出雲、三沢城の北東側に三澤氏の持ち城のひとつ・亀嵩城があり、三澤為虎も亀嵩城に居住したことがあったとされる
🔘一日一句、一昨日梅雨の終わりを告げるような雷が東の鉢伏山辺りで何回も響き稲妻が山へ。
梅雨の雷(らい)鉢伏山を断ち割らん
🔘夏霧の鉢伏山、旗振山、鉄拐山