「六波羅探題(ろくはらたんだい)」

森 幸夫著「六波羅探題ー京を治めた北条一門」吉川弘文館 歴史文化ライブラリー#535を読み終えた。

11月19日このブログで「鎌倉殿と執権北条氏」を書いてその最終章が、東の武士団が日本史上初めて京や西国を圧倒した「承久の乱(じょうきゅうのらん)」であるのを紹介した。
六波羅探題とはこの承久の乱で京朝廷や西国武士を圧倒した鎌倉幕府の実質支配者北条氏が、その乱の後京に置いた機関でその役目は主に次の3項目である。
①朝廷や大寺社との折衝
②京・洛中の治安維持
③西国の監視、裁判

六波羅とは機関の役所が置かれた京の地名で、かつて平家の本拠があった場所で知られる。
探題とはもともと判定者という意味で、上記の役目を裁定する事から名付けられたと考えられ、この他にも九州探題奥州探題といった職名が存在した時期があった。

都である京から遠く離れた鎌倉に拠点を置いた執権・北条氏を頂点とする鎌倉幕府は、承久の乱をきっかけに天皇の廃立や諸国の守護地頭の任命権などを手に入れたが、旧勢力の多い都や西国統治には苦労が多かったようで、北方(きたかた)と南方(みなみかた)2名の六波羅探題は当時の北条一族のなかでも有力者が任命され、慣れない地で、武力や折衝力、文化力を用いて奮闘する。

この本のなかでは、承久3年(1221)6月の成立以来、後醍醐(ごだいご)天皇建武(けんむ)の新政に向けた旗揚げに呼応した足利高氏(後に尊氏)によって正慶(しょうけい)2年(1333)5月に六波羅探題が滅亡するまでの約100年余りが史料に依ってその事績と共に描かれる。

探題滅亡に当り、鎌倉へ落ち行く六波羅軍は琵琶湖の東で力尽き最後の探題・北条仲時(ほうじょうなかとき)以下
430人余りが全員自害する。これら多数の自害は歴史の中でもあまり例を見ず関東武士の誇りと意地が垣間見える。

鎌倉に殉じた御家人や北条氏被官(ひかん・家来)とは別に探題中で主として実務に当たっていた官僚系の人々は後に室町幕府に吸収され官僚や幕府奉公衆(ほうこうしゅう・直勤家来)になっていくという記述は室町幕府を見る上でとても興味がある。

今まで六波羅探題という名前は知っていたものの一般的にマイナーな存在で、その中身をを知ることは少なかったがこの本のお蔭で新たな知識が得られた。

◎歩きの途中、草むらで見つけた小さな花