昨日は近くに用事があり、大阪のメインストリート・御堂筋の名前の由来になった南御堂に寄ってきた。正式名称は真宗大谷派難波別院で、名前の通り東本願寺の別院で地下鉄本町駅からすぐの至便な位置にある。
親鸞が創始した浄土真宗の歴史は古く一向宗とも呼ばれ、一向一揆は中世を画した大勢力であった。戦国末期、織田信長が大阪の石山本願寺(現在の大阪城辺り)を攻めた際、当時の本願寺法主(ほっす・最高指導者)顕如(けんにょ)は11年にわたる長期戦の後和議を結んで大阪を退去する。
このとき顕如の長子・教如(きょうにょ)は徹底抗戦をとなえ袂を別つ。秀吉の治世で顕如が死去、跡目は一時的に教如が継ぐが後、秀吉の裁決で三男・准如(じゅんにょ)が継ぐことになり教如は隠居の身となるが、このとき大阪に布教のため南御堂の前身となる大谷本願寺(現在地とは別)を建てる。
教如は次の天下人となる徳川家康に働きかけ現在の東本願寺・大谷派の始祖となり京を寺基とするが、大谷本願寺を別院にして今日まで重きを置いている。
また准如の系統が西本願寺・本願寺派を継ぐことになる。これらの動きは一説には、巨大な勢力である本願寺を危険視した家康が敢えて分断を志向した結果とも言われる。
・本堂
・大谷本願寺時代の梵鐘、良く見ると文禄五年と刻まれており1596年に鋳造されたことがわかる。豊臣秀吉が起こした朝鮮出兵、文禄の役と慶長の役のちょうど間、物情騒然とした時期に造られている。
・今回初めて知ったのだが南御堂の近く(南御堂の前に有った出入りの花屋)が芭蕉の終焉の地。毎年芭蕉忌・10月12日には南御堂で句会が催されるらしい。
境内にある芭蕉の句碑
旅に病でゆめは枯野をかけまはる
金色の御堂に芭蕉忌を修す
🔘一日一句
海に向く網戸洗ふて風を待つ