ふるさと厚狭にあった軍事施設

ふるさと厚狭の歴史について色々書いてきたものの、戦中のことには未だ触れた事がなく、12月8日の開戦日が巡って来たこともあり少し書かせて貰う事にした。

私は戦後の生まれなのでもちろん戦中の記憶など全く無いし戦後の子供時代も軍の関係を見聞きした覚えはあまり無い。強いて言えば以前このブログで書いたように厚狭の石炭が軍事上からも増産が強く要請され実行されたとの言い伝えを聞いていた事ぐらいだろうか。

しかし昭和59年(1984)発行の「山陽町史」を読み込むと
実弾射撃場
昭和13年物見山南麓の堤にこれからいずれ出征する若者に実弾射撃訓練をする場として射座や監視壕が築造された。訓練対象者は未教育補充兵対象者や青年学校生徒とされる。

・グライダー滑空訓練場
昭和18年厚狭西善寺(さいぜんじ・加藤地区の東側)の台地を開いて設置され中学生徒志望者や青年学校生徒に県から派遣された指導者が訓練した。グライダーは当初2機、その後町内有志の寄贈2機を併せ4機で訓練が続けられた。

・通信学校演習所
昭和19年厚狭成松(なりまつ)に防府海軍通信学校厚狭演習所が開設、兵舎建設と併せ実習室が厚狭高校北側に設けられた。防府の本校で基礎を終えた兵士が仕上げの実習を約1ヶ月程度行うのが目的で若い兵士が100名前後駐留していた。
またここでは特攻隊員の募集も行われていたとの記述がある。

・軍用候補馬鍛練場
それまでの訓練場が狭かった事から昭和19年鴨神社の近く現在野球場となっている土地に農耕馬などをいつでも軍用馬に転用するため平素から訓練する場所が設置された。
予備役軍人の専任指導員が決められ月2回の訓練がされ毎年10頭前後が軍に徴発された。

その他、西下津の山中に海軍の弾薬庫、西山地区に海軍病院の建設の計画が進められていたが終戦で立ち消えになったようである。

◎戦後生まれの我々が知らないところで、戦時の影響が一見平穏と見える田舎の町にも確実に迫っていたことがよく分かる。

◎これはホウズキのように思うのだが?
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