大阪に職を得て実家のある山口県との行き帰りに、いつも見る風景のひとつがJRの線路傍、海沿いに拡がる山口県周南石油化学コンビナートで、その中でも出光興産・徳山製油所(現在徳山事業所)は、山口県のランドマーク的存在で高度成長期を経て長く光輝く存在であったような気がする。
この地は元々、徳山海軍燃料廠(ねんりょうしょう)だった場所で、連合艦隊など海軍艦艇の燃料を備蓄する場所であって、この跡地の払い下げを受けて建設された。
明治期、日本海海戦などを戦った際の艦艇燃料が石炭の時代、2020、7、31のこの日記に書いたが、厚狭駅の開業と大嶺線(現JR美祢線)の開通で大嶺炭田の無煙炭を徳山燃料廠に運ぶ道が開けた、厚狭生まれの私にとってもゆかりの地である。
昭和32年(1957)この地に出光興産の製油所が出来たことは、国際石油資本(メジャーズ)に頼らない一貫した石油供給ルートが出来たことを意味し日本全体から見ても戦後の快挙のひとつであった。
私が始めて車を持った(年季の入った中古車だった)のは昭和40年代終わり頃だったと思うが、当時の出光興産の商標・アポロガソリンはノッキングが起こりにくく性能に直結するオクタン価が高く、日本の誇りのような感じがして、出来ればそこのガソリンスタンドで給油したいといつも思っていた。
今、橘川武郎著「出光佐三・黄金の奴隷たるなかれ」ミネルヴァ日本評伝選、を読み終えたのだが、奇しくも約1ヶ月前に出光佐三の生涯を描いた映画、岡田准一主演「海賊と呼ばれた男」が民放TVで放映され録画観賞したところだった。
出光興産の創業者出光佐三(1885~1981)は松下幸之助、本田宗一郎などとならんで経営者として戦後の一時代国民的人気があった。
それは当時圧倒的な力を有していた国際石油資本(メジャーズ)に真っ向から対峙して「民族系石油会社の雄」に会社を育て上げ、自国の誇りと、従業員を家族に見立てた人間優先の経営を貫いたことに由来していると思われる。
出光佐三のエピソードまで書くつもりだったが前置きが長くなり、別の日に書きます。
◎我が家の庭の隅に咲くシラー・カンパニュラタ(図鑑で照合しました)