出光興産創業者・出光佐三②

4月19日の続き

出光佐三には広く知られるエピソードが幾つもあるがそのうち私の記憶に残るものを書き残しておきたい。

①海賊と呼ばれた男
これは小説や映画の題名にもなった。
出光佐三は明治44年(1911)北九州門司で石油販売業「出光商会」を創業した。
大正2年(1913)頃、私のふるさとの隣町・下関で朝鮮半島沿岸で操業した漁獲物を、高速の発動機船で内地まで運搬する事業が新たに起こった。

出光ではこれを好機と捉えこの燃料油販売に取り組んだ、その当時の燃料は灯油だったが半値近い軽油でも動力用として問題ないことに目を付け、切り替えを進めて門司から関門海峡を越えて下関海域での海上直接販売(船to船)で取り扱い量を増やした。

当時の代理店販売にはテリトリー制限があり競合業者からクレームが付いたが、出光の「海上には販売区域制限は無いはず」の弁明を、軽油の需要開拓の功績もあり日本石油の店長が「それでは出光は海賊と云うことにしておこう」との計らいで納めた事に依る。

日章丸事件
昭和28年(1953)当時中東イランではイギリス系メジャー「アングロイラニアン社」の権益と設備を国有化接収したため、イギリスと係争中で、イラン製原油ボイコット国際包囲網が敷かれていた。

出光は日本政府の反対も予測されるなか、自社タンカー・日章丸を不測の事態も考えられる、イラン国アバダンの石油基地に差し向け、イギリス側の妨害をかいくぐり輸入に成功し、後の裁判にも勝訴した。

これは当時の世界の耳目を集め、日本とイランとの今日に続く友好の礎になった。

戦後日本の石油業界の主流はメジャーズ・外資との提携での生き残りと成長であったが、出光のみは外資と提携せず自主独立を崩さなかった。
日章丸事件はこのような背景のなかで起こった。

昭和天皇御製(ぎょせい)
昭和56年(1981)3月7日出光佐三は95歳で死去。
昭和天皇は「出光佐三逝く」として次のように詠まれた。

「国のため ひとよつらぬき 尽くしたる
 きみまた去りぬ さびしと思う」

天皇陛下が民間人の死についてこのように悼まれ歌を詠まれる例はあまり聞いたことがなく、よほどその経営者として、また日本人としての活躍を心に留めておかれたのではないかと思われる。

◎民家の塀際に咲いているこれはクレマチス


色違いを我が家の玄関に置いている。