新日本風土記「松本清張 昭和の旅」

5月16日のこのブログに「作家・松本清張」と題してNHKBSの番組、新日本風土記松本清張と鉄道の旅」について小説「砂の器」等の事を書いたところ読者の方から、程なくして放映された同じ新日本風土記の「松本清張 昭和の旅」を見て清張さんの作品を読み返したいとコメントを頂いていた。

実は私も、これはと思い番組表からピックアップして「松本清張 昭和の旅」を録画していたが、ここに来てようやく見終える事が出来た。
この番組の中で取り上げられた作品は殆ど半世紀前に読んだ気がしているが中身の記憶はおぼろげであり、その中で特に「天城越え」と「日本の黒い霧」が気になって読み返す事にした。

押し入れの文庫本ストックをひっくり返すも見つからず、近くの図書館で松本清張全集の中から2冊借り出した。

番組では「天城越え」について〈川端康成の小説「伊豆の踊り子」を同一の場所を背景にして徹底して反転させた〉ものだという趣旨で紹介されている。

この小説の狙いが昭和文学の主流に対する挑戦だとの見方であり、それは清張さん自身が語る「学校教育を受けていない」という言葉と川端康成の東京帝大卒業生という履歴との対比で説得力を以て迫ってくる。

またこの事は清張さんの作風である〈いつも社会の隅や底辺に生きている人達の悔しいつらいおもいを描いてきた〉
ことに通じるのだろう。

小説「天城越え」は現在印刷所を営む男の回想で進むが、その冒頭、「伊豆の踊り子」の引用から始まっており番組での解釈を裏付けているが、このような引用が有ることを私自身全く記憶していなかった。

男は鍛冶屋の倅で16歳の時家出をし、途中で諦めて引き返す途中の天城越えで土工と酌婦に出会い、思い違いや思春期の情念から土工を殺す。

このとき犯行は見つからないままだったが、時効の過ぎた現在、仕事で頼まれた印刷物を読んでしまい、頼んだ老刑事の意図を察して、犯人が自分であると知られていることを理解し心に衝撃を受ける。

清張さんの作品は、読み終えての余韻が必ず長い時間残ってしまう。
伊豆の踊り子」の遊覧の旅をする高下駄をはいた一高生の相手は若い純粋な踊り子であり、「天城越え」の少年は鍛冶屋の倅ではだしの家出旅、相手は年上の酌婦(しゃくふ・売春婦)、、、、、何という対比の仕方だろうか。

日本の黒い霧は別の日に書きます。

◎ユリにも色々な種類があるようだがこれは?
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