「本能寺前夜・西国をめぐる攻防」①/父の日

◎昨日は父の日だったのだが、今年の父の日プレゼントは、孫を連れて帰省した娘から手渡しで2日前に貰っていた為、当日を忘れてしまいカレンダーを見て慌てて今日書くことになってしまった。今年は長袖のゴルフシャツで、やはり娘からのプレゼントはとても嬉しい。これでスコアアップはどうなる?

光成準治著「本能寺前夜・西国をめぐる攻防」角川選書を、面白く読み終えた。
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光成準治さんは、中・近世移行期史が専門の歴史家で特に毛利氏に関する研究の第一人者と言える人で、現在朝日新聞カルチャーセンターで教えを受けている中世史研究の笠谷和比古氏からも私の郷里に関わる毛利氏に関する事で紹介を受けたことがある。

著者は冒頭「はじめに」で、この本が本能寺をめぐるあらゆる謎の解明に挑もうとするものではないと断り、織田権力と西国の戦国大名・領主層との関係に着目することを通じ光秀が信長襲撃に至った背景について推定していきたいと述べている。
また毛利氏には他の戦国大名に比べ多くの同時代史料が残されていることから主たる視点を毛利氏に設定するとしている。

私自身がこの本から新たに得られた知見は以下の通り。

1、毛利氏は尼子氏を滅ぼし中国地方の覇者となるが、この拡大は国人領主(例えば三沢氏)を緩やかに統合する形で実現し、有力な国人層の自立性を否定することもなかった為、毛利氏は領主層全体の盟主に過ぎないという課題を抱えていた。
(これに伴う機動性の不足が、対織田戦争での不利の主要因になっていく)

2、当初将軍義昭、信長共に良好な関係にあった毛利氏だが、義昭、信長関係悪化に伴いその板挟みとなり両者の仲介役も果たすが、基本的な立場は信長権力を恐れている。

3、義昭を受け入れないことが信長、毛利同盟の要件であったが、播磨(兵庫県)備前備中(岡山県)の兵乱に伴う緊張下義昭が毛利領国の鞆の津に無断下向、これが織田毛利の決定的な破綻に繋がった。
然しこの状況は織田にとって歓迎すべきことでもあった。

4、反織田で連携していた荒木村重、別所長治等が次々織田に降る事になるが毛利氏前面の宇喜多氏が織田に付いた事や、毛利氏自身の消極的方針で救援出来ないことが決定的で、これが大阪本願寺の対織田敗北に繋がる

5、当初良好な関係にあった四国長宗我部氏と織田は長宗我部氏が四国全域を制圧する勢いを示し始めた時点で警戒、破綻と繋がるが、織田の外交窓口である光秀は破綻の責任を信長から追及される立場にあった。

(本能寺へと繋がる、西国をめぐる信長、光秀、秀吉関係エピローグは次回に書きます。)

図書館への道すがら咲いていた花
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