「信長と将軍義昭」

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谷口克広著「信長と将軍義昭」中公新書版を読み終えた。
著者は織田信長について数々の著作がある歴史研究家だが、この本の目標を、最近の歴史研究成果を踏まえて一次史料を出来るだけ細かく読み込み信長と将軍義昭の関係を探究することにあると述べている。

兄の将軍義輝が三好党によって殺害された後、義昭が信長に奉じられて上洛、将軍宣下を受けて後、その信長によって追放されるまでの期間を対象にしており副題が「連携から追放、包囲網へ」となっている。

この本の中で、従来一般的であったことを覆し、私自身の新たな知識となった主な事は以下の通り。

①義昭が征夷大将軍に任じられた後の政権は、従来信長の傀儡にすぎなかったと言う見方が大勢であったが、税徴収等の経済的基盤、五畿内守護の補任権等の軍事指揮権を見ても義昭政権と、信長政権との連合政権と呼ぶべきものである。

②信長が最初に越前朝倉義景を攻めた折、妹婿浅井長政の裏切りに合い直ちに京都へ退却するいわゆる「金ヶ崎の退き口」で、一般に木下秀吉の部隊の奮戦のみが言われるが実際には、殿軍の主力は摂津守護・池田勝正勢で3千人もいた。

③織田徳川連合と浅井朝倉連合軍が戦った姉川の戦いで史料に基づく確かなことは以下の4点しか分かっていない。
・戦闘開始は巳の刻(午前10時)頃、
姉川を挟んで東に織田対浅井、西に徳川対朝倉、
・比較的短時間で戦いは終わり、浅井朝倉は小谷城へ退いた、
・双方共に大きな損害はなかった、

④将軍義昭の失政を書き連ねた信長の有名な異見書は、義昭が自身の存在価値を高めるための動きに対する信長の「釘さし」に他ならないが、政策上の対立と言う次元でなく、義昭への人間的尺度への不信からのもので、これを境に両者間が一気に険悪化する。

⑤信長時代の「天下」とは全国と言う意味でなく以下のように限定的に用いられている。

・京都の事また京都を中心とする5畿内(山城、大和、摂津、河内、和泉)辺りの空間
・京都にある中央政権
・漠然とした世間、世の中

⑥将軍の地位に対し信長は終始越えがたい権威を認め、義昭と自分を「君臣の間」と度々表現している。

最近の歴史研究では史料の新発見や読み込みにより半世紀前と比べると新たな解釈が、教科書改定レベルも含めて次々出てきており興味が尽きないが、~~
反面この年齢になると頭の中を入れ換える作業が中々大変!

枯れた桜の根元に咲いている松葉牡丹?
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