故郷厚狭の天神祭・大行司と小行司①

私の故郷山口県厚狭の町にも誠に小さな天満宮があり、子供の頃の秋祭りには大行司(だいぎょうじ)小行司(しょうぎょうじ)と呼ばれる、にぎやかな行列が組まれていた。

大行司は大人の、小行司は子供が中心の行列で商店街を練り歩いていた。(今は見る影もないが当時の商店街は何でも揃う、子供の私にとってまぶしいくらいの賑やかな街だった。)

行列の主役は足軽姿、奴さんで独特の掛け声、確か「アーヨイセ-、アーヨイヤサーノサー」?だったかと思うが、この声に合わせてゆっくり進み毛槍を投げ合いしたりして見せ場を作っていたが、今考えて見ると全体的に侍行列を模しているようであったと思われる。

最近、厚狭毛利家のことを色々調べているなかで「山陽町史」の記述の中に、九代目房晁が萩から厚狭へ転居する際の供揃えが記載されているのを見つけ、規模といい形といい記憶の中の大行司行列と似ている事に気がついた。

またなぜこの行列を大行司小行司というのか子供の頃からずっと疑問に思っていたが、たまたま厚狭を含む山陽小野田市のホームページを別件の用で見ていると、この行列のことを「古式行事」として掲載されていたので、窓口である山陽小野田市歴史民俗資料館に問い合わせると、神戸女子大学が管理しているネット上の「喜多文庫民俗芸能資料」にこの古式行事が載っていると教えられた。

この資料は喜多慶治氏(1901~1992)が全国の民俗芸能を調査されたノートをもとにデータベース化されているもので昭和41年11月10日に撮影された厚狭の行列が写っており私の記憶とピタリ合い、背景には当時の商店街も見ることが出来る。

記事にはこの行列を組むのは集落の持ち回りで、撮影時の大行司役は当時の町長が勤めていること、大行司、小行司は元々祭祀者でそれに付き従う大名行列を模した先駈け行列も大行司小行司と言う等が書かれているがその由来などは不明であった。

厚狭の天満宮は江戸時代に編纂された「防長風土注進案」によると天保元年(1830)6月現在地厚狭川の西岸に勧請されたと記されておりさほど古いものではない。

天満宮は学問の神として全国にあるが、元々は右大臣菅原道真藤原氏の讒言で九州大宰府に左遷されその後亡くなった為に怨霊となり、これを鎮めるため設立された神社で、日本三大天神として大宰府、北野、防府天満宮を挙げることが多い。

防府天満宮菅原道真大宰府赴任途上立ち寄ったとされる場所で日本で最初、延喜4年(904)に創建された天満宮と言われ、厚狭に最も近いところからホームページを調べていくと、驚いた事に防府天満宮の祭事(祭祀)にも、大行司小行司の名前が出てくることがわかり、更に山口県柳井や島根県益田等近在の天満宮でも大行司、小行司行列が出ることがわかってきた

この為防府天満宮に意を決して問い合わせをしたところ永年の疑問への答が見えてきた。(長くなってしまったので続きは明日書きます)

2019年の行列の様子(山陽商工会議所の記事から転載)
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