明治2年の騒動と厚狭③百姓一揆

戊辰戦争の余塵が残る明治2年山口藩では諸隊の脱退騒動が起こり物情騒然とする中、厚狭の北隣美祢郡で畔頭(くろがしら・庄屋の下役)が規定以外の桝を使って年貢を多く取ろうとした事に端を発し、年貢の減額や役人の交代を求め百姓一揆が勃発した。

藩の介入もあって12月中には一端平静に戻ったものの翌3年正月、於福を起点にして美祢郡内に再発、伊佐、厚保と打壊しが続き同月8日には峠を越えて厚狭不動寺原に一揆が入り鴨庄、野田、山川へ更には厚狭市、広瀬、下津、梶、津布田、埴生と厚狭地域を席巻し吉田へと拡がった。

山陽町史の記録によるとこの時一揆勢が旧山陽町域で打壊した村役人層の家は計66軒にのぼる。
厚狭毛利家では当初懐柔策を優先していたが藩の指導もあり切り捨ても辞さない強行策に転じて当時一揆鎮圧の為厚狭大福寺に駐屯の藩政府振武隊、同じく厚狭祐念寺駐屯の奇兵隊と協議し鎮圧に当たった。

脱退騒動と一揆は目的も組織も異なるものであったが一部脱退兵が背後から一揆を煽動する動きもあり事態が複雑化、武力行使に繋がったと考えられる。また当時の百姓は戦時(四境戦争・戊辰戦争)の動員や戦費調達の為の過重な年貢の取り立てで困窮のさなかにあった。

一揆鎮圧後厚狭地域の住人少なくとも4人を含み首謀者等、刑場にてさらし首とした記録が残り、郷里に於ける明治維新の影の歴史と言えるかもしれない。