ふるさと厚狭の石炭②

〈8月26日ふるさと厚狭の石炭①の続き〉

明治2年4月長州藩石炭局は吉田宰判(よしださいばん、長州藩内西部の行政区画)内の石炭確保に乗りだした。

厚狭・郡村荒草(こおりむらあらそう)由田ヶ浴石炭山、同百合野石炭山、及び山川村下村石炭山の3ヶ所が対象であったが、
これらは以前から当地の農民、商人が、藩や厚狭毛利家の許可を得て採掘し、厚狭川の下流、下津(しもづ)から専用廻船で岩国等の塩田用燃料として積み出されていた。

石炭局はその後、埋蔵量の少ない事が分かった郡村の2ヶ所は避けて山川村の石炭のみを管轄下に置く事にした。

採炭時の事故や田地への補償等炭鉱特有の問題発生や、新政府の鉱山を管轄する工部省設置などと相まって、石炭局は結局明治5年2月廃止される事になる。

その後明治10年頃厚狭・生田村津布田(いくたむらつぶた)でも石炭が発見され、赤石炭鉱が開鉱、続いて津布田炭鉱が開鉱した。
この地区の石炭は大嶺炭田と同じ我が国最古の無煙炭で最も炭化が進んでおり揮発分や硫黄が少なく火力が強く臭気が少ないといわれていた。
然し当時は肝心の需要が少なく業績が振るわず経営者も変わって赤石が野上炭鉱、津布田が埴生(はぶ)炭鉱となったがそれでも経営不振でやがて両方とも閉山した。

その後の厚狭石炭業は昭和の時代を待つことになる。

近くの児童公園に咲いている花
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