上杉家武将の手紙

丁度今、歴史家小和田哲男さんが書かれた、中公新書刊「戦国武将の手紙を読む・浮かびあがる人間模様」を読んでいる。

武田信玄から毛利元就に至る有名な武将を網羅した二十通の手紙原文を掲載した上で解説し、その人間性を浮かび上がらせることを試みた著作で面白いが、この二十通のなかで唯一あまり世間に知られていない集団の連署書状が含まれており私のイチオシである。

書かれた背景は天正10年(1582)4月、発給者中条越前守以下12名は上杉謙信後継者・景勝の家臣で宛名は「大河ドラマ天地人」で有名になった景勝の執政・直江兼続である、その為この手紙は実質主君景勝に宛てたものと言える。

謙信時代、越後、越中、加賀、能登、と信濃の一部を領域にしていた上杉氏も後継者争いの過程で力が落ち、織田信長に加賀、能登に攻め込まれ越中で対峙、富山城も織田に取られ上杉方は魚津城を防御の拠点とした。

ここを死守すべく景勝は12名の有力家臣を城将として送り込んだが、攻防40日に及び玉砕を覚悟した12名が連署した訣別の書状である。

原文を詳しく書くことは出来ないが、
~~~此の上の儀は、各滅亡存じ定め申し候~~~  とある。

信濃を含む多方面から攻勢を受けている上杉は援軍を送れず、通常こうなると一人や二人内通や逃亡が出るのが当たり前だが主君と部下との間に信頼関係が確立していたに違いない。
その後直江兼続が降伏退去の勧めを申し送ったにもかかわらず徹底抗戦の後、此の12名の切腹で魚津城は落ちた。

著者は此の行動を「名誉の戦死は子孫への遺産」とする戦国の論理で説明している。武名を挙げることは本人だけでなく家名を挙げることであり、実際に城将12名の子孫は江戸時代に至る米沢藩上杉家の重臣として連綿と遇されることになる。

私はこの一連の出来事が、義を貫いた謙信の精神的遺産が上杉家中に引き継がれている証ではないかと考えている。