厚狭毛利家⑦毛利元康の大津城攻め

天下分け目の関ヶ原合戦では西軍総大将毛利輝元大阪城を動かず、毛利元就8男、厚狭毛利家家祖、毛利元康は輝元の相談役として大阪城にあった。

決戦が間近に迫る中、元々西軍に人質を出していた近江(滋賀県)大津城主 京極高次が慶長5年(1600)9月3日東軍の誘いに応じ突然大津城に立て籠る。

大津は京、大阪と東国を分断できる交通の要衝でありこれの確保は絶対条件であり9月6日毛利元康を西軍主将として派遣、毛利軍の他に増田長盛立花宗茂等を加えて総勢1万5千の西軍が3千の京極勢に攻めかけた。

9月15日に至り二の丸まで陥落、京極高次は降伏して高野山に入った。

局面としては西軍勝利であるがこの時、同9月15日には関ヶ原で東西の大部隊が激突   して東軍勝利が確定しており、毛利元康、立花宗茂等の西軍1万5千が本戦に間に合わなかった事となる。元康、宗茂は朝鮮の役、碧蹄館の戦いを共に苦労した盟友だが歴戦の1万5千の部隊が関ヶ原に間に合えば勝敗の形が変わっていたと考える歴史家は多い。  特に元康は毛利家全体の動きに左右されるが無敗の勇将と呼ばれた立花宗茂は単独で行動出来、本戦の戦局を動かせた可能性が充分あったと思われる。

 その証左として戦後、敗軍の将京極高次は西軍1万5千を足止めした功で高野山から呼び戻され家康から加増を受けている。

5月15日のこの日記にも書いたが、その後毛利元康は命を削って毛利家の敗戦処理を助け、新しい自分の領地である厚狭を見ることが出来ないまま 大阪の毛利屋敷で42歳の最期を迎える。

若き日より毛利家の功業の一翼を担い戦陣に明け暮れた生涯だが私の郷里厚狭の名を日本史レベルで残してくれた恩人でもある。