今日は3ヶ月に1度の地域ゴルフコンペ「田球会」で滋賀県甲賀市の富士スタジアムゴルフ場へ。
スコアはトータル88で目標は何とかクリア。ハンディ戦で2位、天気予報では雨も予想したが終わるまで全く雨に会わず。このコンペはなぜか雨に出会うことが少なく、幹事役が「晴れ男」との評判が立っている
甲賀は忍者の里だが同じく忍者で有名な伊賀の国とは地続きでゴルフ場も丁度伊賀と接した所にありこの辺りは山も深くいわゆる「東照神君伊賀越え」の難所に当たる。
徳川家康が終生語った苦難の道行き「伊賀越え」は天正10年(1582)6月2日未明の本能寺の変に始まる。
この時家康は堺見物を終え信長が滞在中の京へ向かう途上にあり、変報を受けた後、明智軍、蜂起する一揆、野武士等を避けて領地三河岡崎に戻るべく出立した。
摂津(大阪府)、山城(京都府)を通過、山中に分け入り近江(滋賀県)甲賀から伊賀(三重県)を抜け伊勢の海に出て海路を使い三河岡崎に逃げ戻った。
この時、家康家臣・服部半蔵正成は父祖が伊賀の出身だった縁で、伊賀の地侍に道案内を頼み一揆の襲来を本多忠勝を始めとする少数の家臣で防ぎつつ、山中を駆け抜けた。
伊賀の地侍がこの逃避行に協力した背景は「天正伊賀の乱」と言われる織田信長が伊賀の国に攻め入り地侍の皆殺しを図った際に辛くも逃げ延びた人々を服部半蔵が匿うのを黙認したことにあると言われる。
家康はこの「伊賀越え」の恩義を忘れず天下掌握後、低い身分ながら伊賀出身者を多量に登用しこれらの人々は伊賀同心と呼ばれた。