毛利秀元③関ヶ原の無念

毛利秀元山口県下関市周辺を領する初代長府藩主だが故郷厚狭の山野井地区が長府藩領であったこと、厚狭周辺の領主であった厚狭毛利家と熊谷家それぞれの重要な局面での庇護者であったことなどから非常に興味深い人物として以前から追跡しており関連する内容を3月30日と9月2日に既に書いている。

毛利秀元は元就の4男元清の子で毛利本家3代目輝元に子がなかったため養子となったがその後輝元に跡継ぎが出来た後も官位(正三位参議)の高さやその見識から毛利家中で特別な扱いを受けていた。

天下分け目の関ヶ原合戦の折り当主輝元は西軍総大将として大阪城に入り、その意を受けた秀元は毛利軍前線部隊全軍を率いて関ヶ原に出向いた。

この時点で毛利軍先鋒部隊指揮官、吉川広家は東軍黒田長政を通じ徳川家康に内応、戦後の毛利家安泰に向け工作を進めていた。

この工作を深く知らされないまま秀元は関ヶ原南宮山頂に布陣、広家は先鋒大将を任されており山裾に近い場所に陣を敷いた。

南宮山の後背には長宗我部、安国寺等が布陣した。

南宮山は家康本隊の横面を衝く位置にあり戦端開始後山頂近くの秀元は先鋒広家に出撃を何度も確認するもその都度内応を優先する広家に時間稼ぎをされ、後背の長宗我部軍共々動くことが出来ず、結果的に小早川秀秋の裏切りを誘発、西軍は敗走した。

秀元は広家の説得を退けて家康にまみえる事なく大阪城に戻り、立花宗茂等と輝元に籠城戦を進言するも受け入れられず大阪城を退去する。

当時の軍法では先鋒大将は絶対で後方部隊が先鋒を押し退けて前に出ることは軍律違反であることを理解する必要がある。

いずれにせよ毛利家内部の統制不備が8か国120万石から防長2か国36万石への転落の主因である。一般的に関ヶ原の勝敗は小早川秀秋の裏切りで決まったように言われるがその裏切りは毛利家が動かなかった(動けなかった)ことが引き金になっており、関ヶ原西軍敗戦の主犯は吉川広家(後の岩国領主)であるのが私の見立てである。

この後長く長府藩と岩国吉川家との軋轢が続くことになる。

あまり関係ないかもしれないが私が岩国の酒「獺祭」や「錦帯橋」を敬遠したくなるのは以上の経過による。