厚狭毛利家代官所日記・番外のつぶやき

江戸時代全人口のうち家族も含む武士階級の占める割合は各藩によって異なるものの概ね5~10%程度であったと推定される。

残り90%以上が百姓・庶民でありかれらは年貢など税を納めるとそれ以外は罪を犯さない限り基本的に義務は生じない。

武士は年貢から得られたもので代々祿を受け政治や軍事の義務がある。ことが起こり出陣する際は自前・自弁が原則で代々の祿はそのためのものである。

幕末の長州藩は下関攘夷戦争、禁門の変、太田絵堂の内戦、長州征伐・四境戦争などが続き否応なくわがふるさとの人々も巻き込まれていく様子が代官所日記などに記されている。

本来これらの有事には厚狭毛利家などが自前で出陣義務を果たすべきであるが、家中の実態は藩政二百数十年を経過するなかで藩からの要求を充たすことが出来ず、農民を兵士に仕立てたり、足軽中間として戦場に引き出すことになっている。

またその費用についても商品経済の進展で日常を賄うのがやっとであり往々にして借財で廻っている。従ってこれらの戦いの前後では頻繁に献金(実態は割り当てに近い)を募りしのいでおり、多額の献金者には武士身分まで与えている有り様までが日記に記されている。

これらの記録を見ていくなかで幕末期には既に藩政制度・武士の世の根幹がほころびを見せていることは明らかである。

高杉晋作はこれらの諸問題のうち軍事面についての矛盾を解消すべく庶民にも門戸を開いた奇兵隊を結成してその糸口としたが、経済面や政治面を含む抜本的な体制変革は軍事面での徴兵令を含めて明治維新に至ってようやく達成されることになる。

わがふるさとの民政記録・代官所日記の内容は明治維新という革命が当時の日本にとって不可避であったことを示唆しているように思えてならない。

 

【春立つや書読む日々に変わりなく】

 

🔘健康公園花壇、紫のパンジー