11月5日のこのブログの続き、
幕末、米国ペリー提督を始めとする外圧に抗し難く、幕府は安政5年(1858)日米修好通商条約を締結し鎖国時代は終る。
しかし時の孝明天皇はこの条約に反対で、幕府は朝廷の意向を無視して調印したことになり、以後攘夷(じょうい・外国を打ち払う)論が大きな政治課題となる。
万延元年(1860)条約調印を主導した幕府大老・井伊直弼が桜田門外の変で倒れると、朝・幕の力関係は大きく変化、幕府はいわゆる公武合体策で権力の延命を図り、朝廷の意向を尊重せざるを得ない立場に追い込まれる。
文久3年(1863)3月7日上洛した14代将軍・徳川家茂に対し孝明天皇は「攘夷の勅」を告げ、家茂は4月20日、攘夷実行期日を5月10日に決した。
然し幕府は5月10日以降も武力を用いた攘夷を実行せず、諸藩のなかで実行したのは下関海峡で外国船を砲撃した長州藩のみで、この時点から本当の意味での長州の激動の時代が始まることになる。
前置き説明が長くなったが、「馬関軍中日記」はこの下関(馬関・赤馬ヶ関・赤間ヶ関)の攘夷戦の従軍日記である。
以前のこのブログにも書いたが、当時の厚狭毛利家九代当主・毛利元美(もとよし・別名元教)はこの攘夷実行の惣(総)奉行(総指揮官)を本藩より命じられ下関に赴く。
これは戦場にもっとも近い地を預かるものが戦の先鋒大将となるという、武家の原則に則ったものと考えられ、ふるさと厚狭は必然的に攘夷という時代の大きなうねりに巻き込まれることになる。
日記は表題に続き「元教公文久3年4月攘夷惣奉行赤馬ヶ関御出張記」と記されており、公式記録を兼ねていることを示している。
また日記は4月17日から始まるが、そこに
・井上金吾(厚狭毛利家家老)御手当惣奉行
・二歩駿祐 御手元諸器械(武器)繰出方兼
と記されており俊祐はいわゆる兵站(へいたん)部門で武器など器材の準備役を兼ねていたものと思われる。
次回以降全てを書き出すことはせず、重要事項や興味ある記事などを選択して抽出する。
🔘今日の一句
夜業らし小舟渾身クレーン曳く
🔘施設の庭、カタバミ(酢漿草)の仲間