厚狭毛利家⑩諸隊追討総奉行就任と失脚

元治元年(1864)7月 禁門の変で御所に攻め掛けた長州藩は朝敵となり幕府は第一次征長令を発し諸大名を動員した。
折しも8月、前年5月下関で攘夷の為砲撃された4ヶ国(米、仏、英、蘭)艦隊が報復の為下関に来襲、長州藩は大敗し攘夷実行の無謀さを身に沁みて知ることになる。

この状況下、藩内では急進派(正義派と呼ぶ)と穏健派(俗論派と呼ぶ)の激しい政争があり俗論派が政権に就き征長軍に対し恭順、禁門の変の責任者として福原越後益田右衛門介国司信濃の3家老の首を差し出して赦しを請い征長軍は解散した。
この時期厚狭毛利家当主毛利能登は一門家老として俗論政府の加判役の要職に就いていた。

この状況に憤った高杉晋作は潜伏していた九州から下関に帰り12月長府功山寺で挙兵、これに奇兵隊をはじめとする諸隊が呼応、俗論政府の藩士軍 先鋒隊と、萩と山口の中間地点に当たる大田・絵堂の地で激戦となる。

毛利能登は諸隊追討総奉行兼先鋒隊総奉行に就任、その後高齢の能登に代わり嫡子宣次郎が代わりを勤めるが、この内戦は指揮官兵員の士気に優る諸隊正義派側の勝利が確定、政府員も交代し桂小五郎村田蔵六大村益次郎)も参画した正義派の陣容で幕府に対し武備恭順(表向きは従うが裏で軍備拡張)の方針で臨む事が決定する。

厚狭毛利家当主はこれ迄の一連の経過から俗論守旧派という評価が藩内に定着、以後表舞台から完全に退出することになる。