「山名宗全と細川勝元」

小川信(おがわまこと)著「山名宗全細川勝元吉川弘文館刊を読み終えた。

この二人の人名を聞いてピンとこなくても「応仁の乱」の対立した東西両軍の総大将と言えば歴史の教科書には必ず出てくるので思い出す人もいるはずである。

この本はその総大将二人を中心に追跡することで分かりにくいことで定評のある「応仁の乱」を分かろうとアプローチしたものだと云えるかも知れない。

足利幕府の職制に三管領四職(さんかんれい・ししき)があり、将軍を補佐する幕府の最高職・管領を出す家柄三家とこれに次ぐとされる侍所(さむらいどころ・軍事警察等を所管)の長官・頭人(とうにん)を出す家柄四家を出す守護家を言う。

細川家は三管領のひとつ、山名家は四職のひとつで応仁の乱当時細川家一門は九ヶ国、山名家は十ヶ国の守護を兼ねており両家が幕政を主導する立場にあった。

宗全、勝元は舅と婿の関係から当初は協調関係にあったが以下のような要因が重なり主導権争いとなり両派とも与党を集め京で戦端を開いたのが「応仁の乱」である。

・諸大名家の家督争いや大寺社も含む内紛

・将軍家の家督争いや将軍・足利義政の現実逃避

このようなことから一族一家が両派に別れて戦うことが当たり前のようになる。

乱の勃発時は京が戦場であったがその後全国の地方に波及、応仁元年(1467)に始まった乱は細川勝元山名宗全両者の死を経て結局文明9年(1477)まで11年に渡って続く大乱になり最近では応仁・文明の乱とも呼ばれる。

この乱は不思議なことに総大将のこの二人をを含め誰一人英雄が登場せずだらだらと戦乱が続くが、後世に与えた影響には極めて大きいものがあり、著者は最終章「両将の死とその後の両家」で以下のように書かれている。

『勝元・宗全ともに戦争指導力の限界を露呈しながら、戦乱半ばにして世を去った。しかもこの大乱を契機として、全国的に守護代や国人のなかから戦国の群雄が続出し、足利将軍家はもとより、細川・山名両家も相前後して衰運の一途をたどったのである。

したがって勝元・宗全両将の勢威は、室町幕府の衰亡を前にして咲き誇ったあだ花のような権勢でしかなく、彼らはいずれも権力争いによって古い支配秩序の自壊作用に拍車をかけ、1世紀にわたる戦国争乱への道を開くという皮肉な役割しか担うことができなかったといえる』

応仁の乱については最近出版された良書・呉座勇一著「応仁の乱中公新書 があるがこの本と併せて読むとより一層理解が進むような気がする。

 

梅雨に射す陽の温かさ片隅に】

 

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