「十津川郷士」

京の都の周辺近畿地方には、丹波国(京都府)山国郷(やまぐにごう)の「山国隊」、山城国(京都府)小野郷八瀬庄(やせのしょう)の「八瀬童子」(やせどうじ)など深い奥山の里に生きる、天皇家や時の権力と繋がりがある不思議な集団が存在した。
「八瀬童子」は現在も皇室の行事に名が出てくる。

大和国(奈良県)十津川郷(とつかわごう、現十津川村)の十津川郷士もその一つである。

現役時代この奈良県十津川村に縁のある後輩が「とつか」「とつか」と言っていたのが耳に残っており、元々「とつがわ」と思っていた事を否応なく「とつかわ」と再認識した。
調べて見るとこの語源は遠(とお)つ川(都から遠い川の地方)にあるらしい。

昨日行った近くの図書館で若い時に読んだ司馬遼太郎さんの「街道をゆくシリーズ・十津川街道」が目につき、もう一度読み直すことになってしまった。
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司馬さんは約40年前に大阪富田林から奈良県五條市を経て十津川に車で入られているのだが、そこに描写される紀伊山地の山々に囲まれた生活は、NHKの新日本風土記やええトコ(これは多分関西ローカルのみの番組)で最近見た風景とあまり変わってないと思われる。

この「十津川街道」に十津川出身の兵のことが度々出てくるが地元の言い伝えや記録を整理すると、
壬申の乱(672)天武天皇に味方
保元の乱(1156)崇徳上皇方に弓の達者として参戦
南北朝の乱(1336~)で南朝方として参戦
大阪冬の陣(1614)で徳川家康の警備に任じた

更に十津川郷士としての名が広く知られたのは幕末から維新期にかけて「天誅組の乱」を皮切りに勤皇方として参画、御所の警衛戊辰戦争にも出役した。

明治新政府はこの経緯から十津川郷に現米5000石を支給、更に驚くのは全村2235戸全てが士族に列せられた事である。
江戸時代概ね全体の90%以上が百姓身分だった中で驚くべき事だが、ただ士族になってもその暮らしは以前と同じく山仕事、狩猟、耕作と言った具合で今に至るも続いている。

その十津川を明治22年約1週間連絡途絶という大水害が襲い流された戸数に見合う600戸2691人が北海道に開拓移住新十津川村を立ち上げ現在の新十津川町に至る。

この時の政府の支援は戊辰戦争時の十津川郷士の貢献が与っていると言われる

公共の場所に咲いている花、水仙の仲間?
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