朝の「歩き」の出会い・八尾の高松塚

昨日は梅雨の合間のウオーキング日和で朝食後、早速いつものコースで歩き出したが、たまたま目的の「コメダ珈琲店」の少し手前の交差点で赤信号に変わってしまい、その場でふと思い付き、信号を渡らずいつもと違う少し遠廻りの道を歩くことにした。
初めての道で公園に出て、大体の見当からその外周を回り込むと、古い墓と掲示板に出会うことになった。
(後から見るとこの場所は目標のコメダから200m位しか離れていなかったのだが)
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八尾市作成の掲示板を読むと、「高松信重の墓」とあり応仁の乱で、東軍・細川勝元方で戦い西軍・山名宗全の軍に敗れ討死したとある、古くから高松塚といわれオコリ(熱病)に効くとの民間信仰の対象であったらしい。
(高松塚というと奈良明日香村の高松塚古墳が真っ先に思い浮かぶが、ここにも立派な高松塚があった。)

姓氏家系大辞典の高松信重の項には掲示板と同様の記載と、八尾木(よおぎ:この公園付近の地名)に死すとあり、また讃岐(香川県)の豪族高松氏の出自と書かれている。
足利幕府の管領細川氏の地盤は四国の阿波(徳島県)讃岐(香川県)も含んでおり、高松氏との関係も頷ける。

この高松氏の系統で、豊臣の大阪城が徳川に攻められた「大阪の陣」の折りの武将に高松頼重の名があり真田幸村後藤又兵衛と同じ豊臣七将の一人木村重成に属して戦っている。
歴女に大人気の木村重成は夏の陣で「八尾若江の戦い」で戦死、その墓はこの地の北数キロ(義母の入所していた老人ホームの目の前)にあり、多少の因縁を感じる。

長い間暮らしていても、少しいつものエリアから外れてみるとマダマダ知らなかった事が沢山ありそうな気がする。