「教科書には書かれていない江戸時代」と長州藩士・長井雅楽(うた)の切腹

山本博文著「教科書には書かれていない江戸時代」東京書籍刊 を読み終えた。

著者は東大史料編纂所の教授で中学や高校の歴史教科書の編集委員もされており、「あとがき」にこの本のことを、教科書は通説として認められている学説を採用することが一般的ななかで、教科書には採用されなかった最近の知見を織り込んだ一般向けの文章のなかから江戸時代のあれこれを収録したと書かれている。

この中に江戸時代の武士の切腹の事例が報告され、学問に励んだことが認められ財政再建策の立案を命ぜられた会津藩の武士の事例が出ている。

彼は藩札の発行を提案、承認され実行したが藩内に偽札が横行し混乱、「不届き至極」と総括され切腹を命ぜられた。

上席に登用され自分の主張が実現できるという場合、もし失敗したときは自分が腹を切って責任を取らなければならない社会が江戸時代の武家社会であり、私の追いかけている幕末の長州藩でも全くこれに似た悲惨な事例がある。

嘉永6年(1853)ペリー来航を起点とする幕末の激動期、朝廷、幕府、各藩其々にその方針を巡って揺れ動いた。

安政の大獄桜田門外の変を経た文久元年(1861)長州藩士・長井雅楽は藩主に「航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)」を上申、藩論として取りあげられ朝廷や幕府にも入説し、朝廷と幕府の融和を図ろうとする公武合体派から歓迎された。

その後朝廷、幕府とも公武合体派が勢いを失うと長州藩内でも松下村塾系の勢いが増して尊皇攘夷派が権力を握り長井の責任を追及、以前は支持していた藩主より一転して切腹の命が下り慫慂(しょうよう)として命に服した。

辞世

君がため捨つる命は惜しからで唯思はるる国の行く末

航海遠略策とは、以下のように時代を先取りしたような構想であった。

「既に諸外国と締結した条約はそのままに朝廷幕府が和し積極的に世界と通商航海して国力を上げ、その後に諸外国に対抗しようとする考えで、条約を破棄して尊皇攘夷を進めようとする急進的な立場からは目の敵にされた」

🔘岩倉具視なども長井雅楽の人物を高く評価しているが、長州藩ではこの時期他にも多くの人材が志半ばで倒れている。

🔘今日の一句

 

家移りの海見ゆ街に夏は来ぬ

 

🔘施設の庭、チェリーセージ