「坂の上の雲」⑨須磨(すま)の灯

私は今神戸市の最も西の端に当たる垂水に住んでいるが直ぐ東となりが同じ神戸の須磨になる。須磨は源平合戦の一の谷の古戦場や須磨離宮などが有名な景勝地で、源氏物語の舞台にもなっている古くからの土地である。

坂の上の雲」の主人公の一人正岡子規は肺結核を患ってしまったが、折から勃発した日清戦争に本人のたっての希望で従軍記者として大陸に出張した。

坂の上の雲」第二巻は従軍1ヶ月を経て子規が帰国船に乗り込むところから始まるが、その船のなかで子規は喀血する。

下関を経由して神戸港に着いた子規は

【須磨の灯か明石のともし時鳥(ほととぎす)】

という俳句を記した。

時鳥は子規とも書かれるが口のなかが赤いところから「鳴いて血を吐くほととぎす」といわれ血をはく自分の姿をそれとなく描いたものと考えられる。

子規は神戸病院に二ヶ月入院した後、須磨の保養院で転地療養するようになる。ここでの生活はひと月で切り上げいったん故郷の伊予松山に戻ることになる。

この須磨に滞在しているときに子規は後輩兼弟子とも云える高浜虚子河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)達に向け私のような俳句初心者が傾聴すべき言葉を残している。

「良句もできるが、駄句もできる。しかしできた駄句は捨てずに書きとめておかねばならない。理由はない。ちょうど金を溜める人が一厘や五厘のお金でもむだにせずこれを溜めておくのとおなじである。そういう一厘五厘をむだにするものが決して金持になれないように、自分のつくった句を粗末にして書きとめておかぬひとはとてものこと、一流の作者にはなれない」

近代俳句第一人者の参考になる意味深い言葉である。

子規は松山に数ヶ月居た後に帰京するがその途中大和路に立ち寄り法隆寺まで来て詠んだのが、

【柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

という有名な句である。

 

🔘名句の後で恥ずかしながら

 

【古文書に梃子摺(てこず)り仰ぐ朧(おぼろ)月 】

 

🔘近くの健康公園には立派なソメイヨシノの並木があり初めての満開を楽しみにしている。

このところの陽気で今朝雨上がりを歩くとようや開花が始まっている。