「根来寺(ねごろでら)を解く」②

3月3日の続き

この本の中には大日如来を中心に置いた真言密教の宗教的機微に触れた内容も多いが、その部分は割愛し主に歴史的経過のみに絞って私自身が根来寺を理解する為に整理してみる。

根来寺紀伊国和歌山県の紀ノ川下流域・岩出市にある新義真言宗総本山の密教寺院で、世界文化遺産紀伊山地の霊場と参詣道」に接する葛城山地の西端にある。

12世紀前半、真言覚鑁(かくばん)が高野山上に弘法大師空海が創始して後途絶していた法会の再興を図り、密教の理想を実現するため鳥羽上皇の帰依を得て大伝法院を開山した。
この時鳥羽上皇は大伝法院領として5ヶ所の荘園とそこに既にあった寺を末寺として下賜、この寺が根来にある事から発展して根来寺となった。

この後大伝法院は高野山金剛峯寺と長期間に亘って人事、教義、所領などの争いに巻き込まれるが、これが高じて仁治3年(1242)7月金剛峯寺衆徒によって大伝法院は焼き討ちされ焼失した。創建110年後の事である。

その後も政治権力をも巻き込み両者の争いは続くなか、宗祖覚鑁(かくばん)の法灯は徐々に根来寺へ移管が進み、天文16年(1547)根来寺真言密教の象徴である大塔が完成したことで移管が完了する。

この移管の過程で宗団は結束を強め、根来寺イエズス会宣教師を通じヨーロッパへ伝わるほどの巨大寺院に発展する。
イエズス会司祭ルイス・フロイスが晩年執筆した「日本史」には根来について次のような記述がある。

高野山から分離し独自の富裕な宗派をつくり共和国的な存在になっている。
・仏僧は有髪で矢を作り鉄砲や弓矢による軍事訓練にいそしみ都に隣接した武将は彼らを傭兵とした。
(有髪の僧とは寺の下部を構成する行人(ぎょうにん)と呼ばれる身分のものと推定され、対外的な交渉や軍事、警護等を受け持つ。TV時代劇等に登場するいわゆる「根来衆」はこの記述の影響が大きいと考えられる)

宣教師フランシスコ・ザビエルイエズス会に送った書簡の中に日本の大きな大学の一つとして根来の名があり3500人以上の学生を擁すると記されている。

また16世紀後半大航海時代に作成されたヨーロッパの各種世界地図には、根来寺は「NEGRO」として載っている。

この頃の根来寺は100余りの堂塔、40余りの院家(いんげ)を備えた大伽藍であったと絵図に残されている
室町時代以降は次回で。

◎近所で咲いている梅