ふるさと厚狭は古代交通の要衝だった。

厚狭は古代律令制のもとで、長門国厚狭郡を治める郡司が執務する役所、郡家(ぐんけ)が置かれていた。私が昔通った旧厚狭小学校の近くに郡小路(こおりしょうじ)という地名があったが名前が示すとおりこの辺りに大規模な郡家があったと推定される。

山陽道は当時、都と九州一円を治める大宰府を繋ぐ幹線道路だったがこの幹線の要、  駅家(うまや)も厚狭に郡家と併設されており名前のとおり20ー25匹の替え馬や宿泊施設等も常時用意されていた。

駅家は西部劇映画によく出てくる駅馬車ステーションを大規模化したものだろう。

厚狭の駅家はこれだけではなく山陰道との連絡道路のつなぎの役目も担っており美祢厚保方面から石見国(島根県)へ繋がる起点になっていた。

今、厚狭は山陽新幹線こだまも停車し美祢線の起点として山陰方面に繋がっている様は古代と同じ交通の要衝である。

然し残念なことに現在の厚狭駅前はとても交通の要衝とは思えないさびしい実情であり、この立地を生かし子供の頃過ごした賑わいに繋がる町の再生策を心から待ち望んでいる。