ふるさとの象徴 松嶽山

ふるさと厚狭の小中学校校歌に必ず出てくるのは厚狭川と松嶽山(まつたけさん)。  この松嶽山は町の北西にあり標高324mとさほど高い訳ではないが山裾も広く町を見下ろす形で周辺の山を圧倒している。

子供の頃は、松茸がとれる松茸山と思っていた時期があった。

嶽とは一般的に高いが転じた言葉で山の高大なものと言われる。また別に観音の立たせ給う山、修行霊地との意味合いもある。

このことから考えて松嶽山の名前は山にある「正法寺」(しょうほうじ)抜きには語れず寺と一体のものと考えられる。正法寺は修行霊地に見合う真言密教の寺で現在はさほど大きな寺とは言えないが厚狭図書館に寄贈された文書からみると最盛時、山中に12の坊、山麓に50の坊を持つ大伽藍であったと伝わる。

この山と寺の関係は真言宗本山の高野山金剛峯寺の関係と同じと言える

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正法寺絵図写し伽藍の大きさが偲ばれる

正法寺の歴史を山陽町史や厚狭郡史及びその他の各資料で振り返ると
・正暦2年(991)花山法皇開基(但し正史には法皇巡幸の記述はない。)

・寿永3ー4年(1184-1185)源平下関壇ノ浦の戦い前後、軍兵が乱入全山焼失 

・貞応2年(1223)国裁を仰ぎ鴨庄他の寺領を回復

・正応2年(1289)元冦にあたり異国降伏の祈祷を行う

・正平17年(1362)厚東氏が寺に梵鐘を献上

・元中9年ー天文3年頃まで(1392-1532頃)中世期を通じ、厚氏、由利氏、       箱田氏等近辺の地頭・武家が寺領を押領し争いが続く

・永禄10年(1567)毛利輝元 正法寺寺領安堵

元冦の際の異国降伏祈祷は朝廷・幕府の指示で行われるものであり当時の寺格の高さを物語る。

中世期には武家と寺社との所領争いは全国で頻繁にみられ、僧兵や大衆(だいしゅ)と呼ばれるような武力を有しない寺社には苦難の時代であり、このことは松嶽山正法寺にとっても同様であり大変苛酷な状況にあったと思われる。

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現在の松嶽山遠景(友人から借用)もう一度登る機会があるでしょうか。