厚狭毛利家⑤毛利元康 大阪の墓を訪ねて

厚狭毛利氏の祖、元康は朝鮮の役に毛利軍の一手の将として出陣、史上有名な明の大軍との激戦、「碧蹄館の戦い」では大勝に貢献、秀吉から、小早川隆景立花宗茂と共に乗馬と感状を与えられている。

この「碧蹄館の戦い」では後年、常に隆景と宗茂が特別に評価されるが、3人目の

毛利元康が忘れ去られていることが残念でならない。朝鮮の役後  元康は、豊臣姓を下賜され従五位下・大蔵大輔に任官、自立した大名以上の扱いである。

その後関ヶ原では立花宗茂と共に大津城攻めを指揮、本戦には間に合わず、毛利が中国8ヵ国から防長2ヵ国に減封の折りに厚狭一円10500石を拝領した。

然し国入りは叶わず毛利氏の大阪宿陣で病没した。

昭和59年発行の<山陽町史>では

「時に42歳、天徳寺に葬り法号を、天徳寺石心玄也と称した。ーーー

元康は厚狭郡を拝領して厚狭毛利の始祖となったがついに同地を見ず、しかも戦国のならいとはいえ、正に戦陣に明け暮れの生涯だった。」

と記されている。

今日は、いつか行ってみようと思っていた大阪市北区にある曹洞宗・天徳寺に行ってきた。

たまたまお会いした寺の身内らしき人に伺うと毛利元康の墓は大阪空襲で被害を受け寺の方で一部修復されたとの事であり写真に納めて来た。

大阪の地で故郷厚狭に縁がある先人に数百年の時を隔てめぐり会う不思議さを感じる。

それにしても石心 玄なりとは?

玄とは辞書を引くと天地万象の源、深遠な趣と言った意味があるらしいが、誰が付けたのか、その意味は?……興味が尽きない。

五輪塔の空 風 火 水 地は仏教で宇宙全体を表すらしいが、何れにしろ普段あまり考えないことを色々考えさせられる訪問であった。

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毛利元康墓 天徳寺殿石心玄也大居士 毛利家家紋

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天徳寺玄関