「秀吉の武威、信長の武威」

黒嶋敏(くろしまさとる)著「秀吉の武威、信長の武威/天下人はいかに服属を迫るのか」平凡社 刊を読み終えた。

著者は日本中世史の専門家で戦国時代に関する著作が多い。

武威(ぶい)とは辞典などを紐解くと「たけだけしい威力、武力の威勢、武家の威光」と書かれている。

著者は戦国末期天下統一への時代、天下人に近い人物が中央から地方大名を従属させるため、武力やその影響力を駆使して勢力を拡げていく実態を追跡し、新たな統一政権が出来上がっていく政治過程を考えようとしている。

その為のキーワードが「武威」であり、豊臣秀吉織田信長が遠国である九州や奥羽へ服属を迫る為にどの様な武威を発信していたのか、現代に残る一次史料(書状、日記等)を丹念に読み解き解明していく。

取り上げている史料が膨大であるため内容を語り尽くせないが、信長、秀吉共に時として「開いた口が塞がらない」ような大袈裟な表現で自らの武威を遠国へ発信していて、著者は両者の特徴的なポイントを以下のように端的な言葉で表している。

・信長が武威を発信する主目的は軍事的な連携者の獲得であり、信長の「天下」がこうした連携の蓄積に過ぎないとすれば「天下」の内実は過大評価出来ない。

・秀吉は戦果を語るだけでなく、自らの存在で社会が「静謐(せいひつ)」になりあるべき秩序が回復したことに力点が置かれ、これによって上下の主従関係の形成に至る論理が武威の中で確認される。

この本自体は中央の権力者から地方を見ているが、ここでやり取りされている史料(書状)を遠国・地方の側に立って見てみると、地方大名も生き残りをかけて中央権力者の誇大宣伝を知りつつ表に服従の意志を見せつつも、各々が自らの利益をあくまで追求しているしたたかな様子も見えてくる。

🔘今日の俳句

 

崔花雨(さいかう)の雫(しずく)こんもり凸レンズ

 

春雨の雫が飾る葉落ちの枝(え)

 

🔘健康公園の雨上がり、イロハモミジの枝に雫が付いて美しく輝き、よく見ると雫がレンズになって色々なものが写り込んでいる。

「戦国武将、虚像と実像」

呉座勇一著「戦国武将、虚像と実像」角川新書刊を読み終えた。

著者は日本中世史が専門の気鋭の歴史家でその著作「応仁の乱」はこの分野では珍しいベストセラーとなった。

著者は「はじめに」でこの本の主題を『「大衆的歴史観」の変遷を追い、日本人の自画像の変遷を明らかにする』と記している。

世間一般の人が抱く歴史認識「大衆的歴史観」は専ら歴史小説や時代劇(江戸時代は講談や歌舞伎)によって形成されて来たとして、最もポピュラーな戦国時代の武将を例にしてその変遷や誤解(実際はどういう人物だったのか)、その影響などを論じたものでありその対象7人そのと課題は以下の通り、

明智光秀、(常識人だったのか?)

斎藤道三、(美濃のマムシは本当か?)

織田信長、(革命児だったのか?)

豊臣秀吉、(人たらしだったのか)

石田三成、(君側の奸だったのか?)

真田信繁、(名軍師だったのか?)

徳川家康、(狸親父だったのか?)

個々の内容には触れないが著者が、終章・「大衆的歴史観の変遷」や「あとがき」に記した核心と言うべき点をピックアップすれば以下の通り。

・戦国武将の人物像は当時の国策や風潮によって大きく変化する。例えば画期的・斬新に見える人物像も100年前に提示されたものの焼き直しということがしばしばある。

歴史小説家や評論家が「大衆的歴史観」の変遷を踏まえずに自説の独創性を誇っても意味がない。

司馬遼太郎歴史観司馬史観」は明治時代が話題になるが戦国時代や戦国武将の評価も検証が必要である。

・戦国武将の人生訓として有名なものは大半が真偽が疑わしい。真偽が定かではない逸話を史実のように語りそこから教訓や社会論を導き出すのは問題がある。

・専門的な歴史学者であってもその時代の価値観から自由ではない。大事なことは自身の先入観や偏りを自覚することである。

🔘全体を通じて歴史学者からみた歴史小説家などやその読み手に対する警鐘と聞こえる。

私も子供時代からの歴史好きで、森鴎外井上靖吉川英治司馬遼太郎津本陽安部龍太郎等々あらゆる歴史小説を読み、またNHK大河ドラマなども観てきたが20年位前から新聞連載を除きこの種のものを読み観ることを止めてしまった。

それはかなりこの本の著者と共通する部分があるが、事実と創作が混然となりやたらに主人公を美化する描写が嫌になってしまったことによる。

現在は歴史家の著作や評論、ドキュメンタリーが中心だが何れにせよ著者と同じく出来るだけ偏りなく事実を知りたいと願っている。

🔘今日の一句

 

春の海雲映しとり墨絵描く

 

🔘施設の庭、画像検索ではこれもヒヤシンスのようなのだが?

 

「登山大名」/「桃源郷」の春

日経新聞の連載小説は作家・辻原登さんの「陥穽 陸奥宗光の青春」が終わり作家・諸田玲子さんの「登山大名」が始まっている。

挿し絵

諸田さんは多作の歴史小説家であることはよく知っているがこれまでその作品は読んだことがなく、初めての出会いであり興味をもって毎日欠かさず読んでいる。

まだまだどのような成り行きになるのか読めないが、主人公は豊後国(ぶんごのくに・大分県)岡藩三代目・中川久清(なかがわひさきよ)で、「作者の言葉」を読むと、久清は九重連山のひとつ大船山を愛し何度も登山し山中に墓もあるとのことで、ここから話が膨らんで行くのだろうと想像している。

この小説のお蔭で過去の関連した史実など幾つかのことを思い浮かべることになり、それを以下に書いておくことにした。

これらを予備知識にして今後の展開を毎日楽しみにしている。

①中川瀬兵衛(せひょうえ)清秀(きよひで)

中川氏が歴史の表舞台で飛躍を遂げたのは久清の曾祖父・清秀の時代である。

中川瀬兵衛清秀は私も若い頃から注目していた人物で、実はこの「登山大名」が始まって、中川瀬兵衛の子孫が豊後岡藩主として明治維新まで続いていたことをあらためて知り、旧知に再会したような気持ちになった次第である。

清秀は摂津国(せっつのくに・大阪府)茨木を地盤にして池田氏、荒木氏に仕えた後、織田信長羽柴秀吉の臣下となり豪勇で知られた。

織田信長は清秀を味方にするため長男・秀政に娘を嫁がせ、羽柴秀吉は清秀と義兄弟の誓詞を取り交わした。

清秀は、秀吉が明智光秀を討った「山崎の合戦」でも奮戦し、続く柴田勝家と雌雄を決した「賤ヶ岳の合戦」で壮烈な戦死を遂げる。

播州三木城主

長男秀政は父の功績や四国・長宗我部攻めの功により秀吉から播磨国三木城13万石を与えられるが、朝鮮出兵時の事故の為死亡、秀吉の怒りを買い所領半減で弟の秀成が襲封した。

この後秀成は豊後・岡へ移封、関ヶ原でも東軍徳川方について明治まで続く岡藩7万石の初代となる。

先日2月16日のこのブログに播磨・三木城を訪れたことを書いたが、その折三木市立歴史資料館で三木城主の変遷表のなかに中川氏の名前を見つけて記憶していたことがここに来て役立った。

三木城天守

③荒城の月

有名な唱歌・「荒城の月」は土井晩翠(どいばんすい)作詞、滝廉太郎(たきれんたろう)作曲で知られる。

詞(詩)の方は一般的に仙台青葉城を想定しているとされる。

滝廉太郎は豊後士族の家系で、岡藩藩校跡に建てられた高等小学校で学んだ経歴もあり、「荒城の月」作曲のイメージは学校の裏に当たる中川氏の居城・岡城祉であるといわれる。

🔘今日の一句

 

山頭火とても成れぬと山笑う

 

🔘健康公園では李(すもも)等桃系の樹木が集まる「桃源郷」と名付けられた一角が春を告げている。

 

番外編・ヤマモモの花

2023年6月18日のブログで、子供時代の懐かしいヤマモモ(山桃、楊梅)を近くの健康公園で見つけその実を採って食べたことを書いた。

その折、花が春に咲くことを知りずっと観察してきたがようやくこの花に巡り合った。

ヤマモモと言えば実のことしか知らなかったが初めてお目にかかった変わった形の花で驚いている。初めて知ることは何であれ嬉しい。

ヤマモモの花粉は風に依って飛ばされ受粉するそうで、虫を介する必要が無いため目立たない地味な一風変わった花の形になったようである。

紅い独特の実を付けるのを待っている。

🔘今日の一句

 

羞(はじら)ひて山桃の花風に向く

 

「百万本のバラ物語」

最近立て続けに歌手・加藤登紀子さんが歌う「百万本のバラ」に関するNHKの番組を観ることになった。

何れも90分の番組でそれぞれ

①「"百万本のバラ"はどこから そして どこへ~加藤登紀子 ジョージアへの旅~」と

②「百万本のバラ物語 TOKIKO KATO~歌は国を越えて心をつなぐ~」と題するものである。

「百万本のバラ」はロシア、ラトビアジョージアに関連した楽曲で、そのメロディーや加藤さんの訳詩に惹かれ、以前から興味があり2022年9月25日のこのブログに一度書いたことがある。

・ロシアの国民的歌手アーラ・プガチョワさんが歌っていたものを加藤さんが訳した。

・この歌詞はジョージアの画家ニコ・ピロスマニが女優・マルガリータに恋をしたという逸話がもとになっている。

・原曲はラトビア人の作詞作曲による「マーラが与えた人生」という歌謡曲で、子供の心情に寄せて大国の狭間で翻弄される自国の苦難を歌ったものらしい。

現在80歳になる加藤さんは1987年以来この歌を大切に歌い続けて、コロナ禍をくぐり抜けロシアがウクライナ侵攻を行っているこの時期、この曲を生んだ画家・ピロスマニの国ジョージア(旧グルジア)を訪ねてコンサートを開き、その記録が①の番組である。

このコンサートの準備のなかで地元の合唱団と「百万本のバラ」を合唱しようと加藤さんが提案すると団員から「ロシアの歌だから嫌だ」と拒否されるシーンが映し出された。

ロシアとコーカサス山脈を境にして国境を接するジョージアは、2008年ロシアの侵攻を受けており、その地政学的な環境を垣間見たと同時に、ロシア周辺国のロシアに対する見方がよく理解出来た気がする。

②は加藤さんが「来し方を見つめ今に訴えるコンサート」という全国ツアー「百万本のバラ物語」の東京公演を映像化したもので、ウクライナを舞台にしたミュージカル・「屋根の上のバイオリン弾き」のテーマ曲、「知床旅情」、「ひとり寝の子守唄」等々と併せジョージアでのコンサート映像が流された。

その後ラトビアの原曲「マーラが与えた人生」と「百万本のバラ」が合唱団と共に歌われた。

私が一番感動したのが、加藤さんが好きだというNHKのテレビ番組「映像の世紀」に使われる加古隆さんが作曲されたテーマ曲に、加藤さんが「無垢の砂」という題で無名の人々を砂に例えた詩を作り曲に併せて朗読された場面である。

私もこの「映像の世紀」というドキュメンタリーはテーマ曲と共に非常に気に入っていていつも録画して観ている。

🔘今日の一句

 

長閑(のどか)さや青き瀬戸ゆく白き水脈(みお)

 

🔘健康公園の草むら、小さなイヌフグリ

園芸サークルの日

昨日は2週間ぶりの園芸サークルの活動日で、朝からラジオ体操も含め参加してきた。

畑の草取りが主な作業で、ホウレンソウやタマネギ、スナップエンドウが植えてある場所の草取り、畝の溝などの部分は固い土なので鍬を使って削り取った。

久しぶりに鍬を使った感触はなかなか得難いもので、畑で汗をかき腰の疲れを感じるのは2年ぶりで非常に懐かしい感じがしてしまった。

スナップエンドウが成長し始めている

先に種を蒔かれたというレンゲの芽が出てきている、田んぼでの花は見慣れているが畑でレンゲの芽を見るのは初めてのこと、

ホウレンソウと春菊の収穫があり分け前を頂いた

作業終了後、会のミーティングがあり会員15名の自己紹介や当面の水やり当番、これからの栽培予定、園芸サークルの発足以来の経過等が話された。

中でも数人の方が話された「土に触れることが楽しい」という言葉がとても印象に残った。

また新人の感想で申し訳ないが、個人的には土壌と水とに工夫の余地があるのではと思ってしまった。

🔘今日の一句

 

杏(あんず)咲き風に温みの長州路

 

 

 

 

厚狭へ帰省

昨日は墓参りと図書館での厚狭毛利家文書の入手、及び地域の写真撮影の為故郷の山口県厚狭に帰省してきた。これ以上にない好い天気に恵まれたが、残念ながら少し花粉症の症状が出始めたような気もしている。

用事は全て予定通り済ますことが出来たが、先ず奇遇は図書館へ向かう途上で母方の従兄弟にバッタリ出会ったこと。互いにマスクを着けていたがすれ違う前に気付くことが出来、元気な様子が分かり今回帰省の一番の成果かもしれない。

厚狭始発で日本海長門市へ向かう美祢線は2023年7月22日のこのブログで書いたように豪雨で壊滅的な被害を受けたが、その後も不通が続いていて代行バスが駅を出入りしている。線路は当然ながら赤錆状態が激しく見るものを暗い気持ちにしてしまう。

不通の美祢線、線路は赤錆

商店街は子供時代は輝いていたが現在観る影もない。時間待ちでよく寄っていた喫茶店も移転していた。郊外のスーパーマーケット周辺はいくらか賑わっている感じがあるがすぐそばにある鴨神社は気のせいか以前に比べて寂れた感じが漂っている。

厚狭駅

厚狭駅から東方向、千町の通り、面影が全く無い。

厚狭駅から北方向

新しく出来た鴨橋から東の本町方向

鴨神社

厚狭の全景を撮るため物見山招魂場・護国神社へタクシーで向かったが私が厚狭生まれと知った運転手さんの、隣街との合併が失敗だったことを含めた厚狭の現状への愚痴を聞くことになり、自分の身体で感じていることと一致しているだけにやるせない。

ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」

という確か中学校で習った室生犀星の詩があるが、状況の違いがあるにせよつい思い出してしまった。

物見山から見る厚狭の全景、応援したくなる風景に新幹線が通過した

厚狭図書館に保管されている長光寺山古墳と妙徳寺山古墳の出土品の一部

図書館に保管されている厚狭毛利家文書の複製を出して貰った

寝太郎像(紅い実はクロガネモチ)と現在の寝太郎用水路

厚狭川

厚狭川畔にある厚狭天満宮

私の生まれた現在の鴨庄一円、奥に松嶽山

 

🔘今日の俳句

故郷の墓前にひとり春の風


商いが廃れゆく街春愁ひ


埋もれたる郷土史追えば山笑ふ