9月度句会

一昨日は住んでいる施設の俳句サークル9月度の例会があった。出席は7名と出句のみが1名で計8名の出句、加えてひとりの方が参加を検討されるとのことで3句を出された。

兼題は終戦記念日、敗戦忌など。

私はこのブログに書いたものを推敲したり新しく作句したりして、兼題の1句を含み以下の5句を出した。

 

終戦と呼び巡り来る敗戦忌

私は戦後の生まれだが、先の戦争については関心があり色々な見方があることを理解しているが、その終わり方は無条件降伏であった。

終戦と云うとせいぜい引き分け程度の形で終わったような印象がある。これから実際の戦争を知っている人がどんどん少なくなるなか、兼題を得て、若い人にあの戦争を伝え再発防止を実行するためには敗戦またはそれ以上の言葉で実態を伝えていく必要があると思い詠んだ。

 

②ぐうたらを望みつ励む夜なべかな

どうも昔から物事にのめり込む方で、頭の中では静かなところで本を読む生活を描きながら、実際は夜昼無しに突き進む生活を続けて来たことや、今もその傾向を少しばかり残していることを反省しつつ詠んだ。

 

③この地下に大芋在りと零余子(むかご)告げ

8月21日のこのブログにも書いたが、施設の境界フェンスに零余子が鈴なりになっていることを施設の職員さんに教えられた。

子供の頃の古い記憶を紐解くと、この地下には立派な自然の山芋(ヤマノイモ)が育っているはずで、いつか掘ってみたい気持ちを詠んだ。

 

④肩落とす帰路に露草迎えけり

施設へ繋がる坂道の一角に毎年露草が花を咲かせる場所がある。

昼間はしぼむ露草を落ち込んだ気持ちでみると余計に落ち込むと想像して詠んだ。

 

⑤青空へジャズ吹き奏で凌霄花(のうぜんか)

施設の庭にノウゼンカズラが咲いているが、花はラッパのような形であちこちに向いていて、まるで複数のジャズメンがトランペットなどを吹いているような想像が浮かび詠んでみた。

◉結果は①の句が特選1名並選1名、②の句が並選1名、③の句が並選1名、⑤の句が特選2名並選1名と云う全体に喜ばしい結果であり施設内に掲示して貰う3句は⑤、①、③の順にした。

◉私が特選に選んだ句は、

 

底紅や赤き刺繍のチマチョゴリ

底紅とは花の内側の底が赤い特長のムクゲ木槿)のことで、韓国では多くの人から愛され国花となっている。このことをチマチョゴリで表現して奥の深い句になっていると感じた。

◉久し振りにベランダから見上げる昼の月、これをみると思い出すのは、美空ひばりさんの歌に「越後獅子」という哀しい懐メロがありその中の二番の一節、

♪︎♪︎撥(ばち)でぶたれて 空見あげれば

泣いているよな 昼の月♪︎♪︎

午後4時頃

午後6時半頃

 

 

「論考 日本中世史」

細川重男著「論考 日本中世史─武士たちの行動・武士たちの思想─」(株)文学通信 刊を読み終えた。

著者は鎌倉時代室町時代を中心とする中世史研究家で著書も多いが、この本は著者自身が「はじめに」で「コラム本」と称しているように一般の歴史好きを対象に中世の色々な史料に載る面白そうなエピソードを集めたものである。

学術雑誌、一般向け雑誌、自身のホームページの記事などに新稿を加え全部で51の話題が載せられていて、それぞれ裏付けの史料をもとにしているが、語り口は今どきのものや当時の乱暴な話し言葉をわざと駆使し、敢えて一般の興味を得ようとしているようにみえる。

51話の中で10数話は新しい知識になった内容が含まれていて読んだ甲斐があったが、ここでは郷土史の関係で以前から私が追いかけている毛利氏に関する内容が出てくる第九話「文士」を紹介したい。

戦国時代中国地方に君臨し、江戸時代は防長二州を領した萩藩・毛利氏は鎌倉幕府初代政所別当(まんどころべっとう)を勤めた大江広元(おおえのひろもと)を起源とする。

広元は京に於ける中原姓の下級貴族で、源頼朝との繋がりから鎌倉に下り文士として幕府内で重きを成した。

広元の四男・季光(すえみつ)は父の所領の内相模国さがみのくに・神奈川県)毛利荘を相続し毛利季光と名乗り毛利氏の家祖となった。

父は文士(文官)であったが季光は武士として生きようと志していて、その意識が見えるエピソードをこの本の第九話で紹介している。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも大きく描写されていた、北条執権家と有力御家人・三浦氏が対立した宝治合戦(宝治元年・1247)でのことである。

季光は御家人として、将軍を擁する北条方に参陣しようとするが、三浦家の出自である妻が夫の鎧の袖をとり「(縁のある三浦を見捨てる)それは武士の致すところか?」と問いかけ、その一言で翻意した季光は三浦方に参陣すべく向かい敗戦の後息子たちと共に自刃する。

その折越後国(えちごのくに・新潟県)にいた季光の四男・経光は事件に無関係とされこの子孫が毛利元就に繋がることになる。

明らかに文士の出身ながら季光も妻も自らを武士と認識していたと著者は語る。

◉合戦終結後北条執権家が敵対した季光の四男・経光を族滅(一族皆殺し)の対象とせず毛利の家名を残させたのは、大江広元の幕府への貢献と季光の武士としての振る舞いの両方があったのではないかと私自身は考えている。

◉今日の二句

 

苞葉(ほうよう)に隠れ昼寝の蛍草

 

肩落とす帰路に露草萎(しぼ)みおり

 

◉秋の季語である露草(別名・蛍草)は毎年路傍にひっそりと咲いているが、今年初めて、花が早朝に咲き午後にはしぼむ半日花と云うことを知った。

確かめるため撮った午前7時頃の状態

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同じ場所の午後2時頃、花は苞葉(ほうよう)に包まれようとしていて半日花を理解した。

「論考 日本中世史」

 

映画「太陽の帝国」

NHK BS プレミアムで放送された1987年の米映画「太陽の帝国」を録画再生して観終えた。

監督が「E.T.」や「シンドラーのリスト」のスティーブン・スピルバーグで戦闘場面や集団場面などさすがと思わせるシーンが随所にある。

主人公の少年・ジムを演じるクリスチャン・ベールは成人後も俳優を続け「バットマン」なども主役として演じているらしい。

日本人俳優としては収容所を管理する日本兵下士官役として伊武雅刀ガッツ石松などが出ている。

日本人以外で私の旧知の俳優は、小悪党ながら主人公と親しくなり彼を支えるベイシー役の個性派俳優・ジョン・マルコヴィッチ、米映画「プレイス・イン・ザ・ハート」で重要な役回りの主人公の女性の家の下宿人を演じたのが印象に残っているし、この映画でも存在感が光っている。

物語は日中戦争が展開中の中国上海が舞台で、更に太平洋戦争勃発に伴い日本軍が上海の外国人租界にも進出し、敵性外国人を収容所へ送り込む混乱のなかでイギリス租界に住む少年が両親とはぐれる。

少年は持ち前の明るさで人々との交流を得、生き延びるため知恵と勇気を振り絞り最悪の環境下を耐え、終戦後に両親と再会するまでが描かれる。

私は現役時代上海に3年間住んだので外国人租界があった外灘(中国名・ワイタン、英語名・Bund)も、そこを流れる黄浦江や近くの揚子江も知っているが、これらをロケ地に使ったと思える幾つかの場面は非常に懐かしさを感じてしまった。

映画のなかで、収容所の外国人に対する扱いや特攻隊の出撃など、旧日本軍の負の面の描写が出て来るが、やはり日本人としては少なからず抵抗を感じてしまう場面がある。

この映画の原題は「Empire of the Sun」で、原作のイギリスの小説も同題らしくまさしく「太陽の帝国」なのだが、この「太陽の帝国」が何を意味しているのか未だに理解出来ない。画面上に何度も出て来る日本の日章旗旭日旗から来る当時の日本を指しているのだろうか。

◉今日の一句

 

フェリー来て太刀魚舟は揺れ転(まろ)ぶ

 

◉近くの施設駐車場のガウラ(白蝶草)

 

健康公園周辺の野鳥シリーズ⑮

7月16日のこのブログに載せた野鳥シリーズ⑭以降撮影出来た野鳥の写真を載せる。

と云っても、冬~春先にかけて健康公園に沢山居た野鳥は様変わりと云って良いほど見かけなくなった。留鳥(りゅうちょう)や漂鳥(ひょうちょう)は日本に居る筈だが子育てと暑さを避けて森などに留まっているのかもしれない。

わずかな機会で撮れた少数の写真をみると、この時期は幼鳥らしきものが多いことが見てとれる。興味が湧いて調べてみると小型の野鳥の寿命(生態的寿命)は環境や天敵などの影響から概ね1年未満~2年程度らしく、思っている以上のスピードで世代交代・新陳代謝が行われていることが解った。

冬を越すことが出来ない鳥もいるのだろうと想像される。

(ただ理想的な条件ではどれだけ生きれるか、いわゆる「生理的寿命」は10年以上になるケースもあるらしく、この「生態的寿命」と「生理的寿命」の著しい差から野鳥は極めて厳しい条件で生きていることがわかる)

以下の写真は冬場と違い青草青葉が周りに多く、スマホの焦点が野鳥に合い難く鮮明さを欠いているのが申し訳ない。

ヤマガラ(山雀)

何れもどことなく幼さを感じる。

エナガ(柄長)

たまたま4~5羽の群れに出会ったのだが、ドンドン木々を渡りゆくので何とか撮れた2枚。

コゲラ(小啄木鳥)

キツツキらしい木をつつく姿が見え、この時は周りに注意が向かなくなるようでシャッターチャンスが生まれる。

ムクドリ(椋鳥)

幼鳥

成鳥、空を見上げて何思う?

互いに大声で口喧嘩?

以下の2枚も身体の色や動作から幼鳥のような気がする。

シジュウカラ四十雀)何れも身体の色や動作などから幼鳥と思われる。

木の葉にしがみつき柔らかい若葉を食べている、巣立ち直後のような感じがある。

樹皮の下の虫を探している

地面の餌探し

ヒヨドリ(鵯)、何れも幼鳥である。

親を呼んでいるような、

若葉を食べに来ている

少し不気味な

ハクセキレイ(白鶺鴒)

正面からなのでわかりにくいがハクセキレイのツガイらしき鳥に続いて来たのでハクセキレイの幼鳥ではないかと思われる。

⑧スズメ(雀)

ミーティング?

若葉を食べている

イヌエンジュの花(蜜)を食べに来ている。

幼鳥と思われるが餌を咥えたままで空を見上げ空想中?

仲良し

親雀の慈愛、餌を口移しで。

◉今日の一句

 

ぐうたらを望みつ励む夜なべかな

 

 

 

戦艦大和 パイロットたちの終戦

NHK BSで放送された1時間のドキュメンタリー番組「戦艦大和 パイロットたちの終戦」を録画していたがここにきて漸く観終わった。

この番組を録画したのは番組名にある戦艦大和と航空パイロットの繋がりが理解出来ず、その不思議さに釣られたもので番組を観てよく分かり、知識が増えて感謝している。

云うまでもないが戦艦大和日本海軍が建造した2隻の大和型戦艦の内の1番艦で2番艦の武蔵と共に基準排水量6万5千トンの世界最大の戦艦であり、竣工就役は昭和16年(1941)12月で一時期連合艦隊旗艦も勤めた。

海戦の主体が航空母艦や航空機に代わっていた為、太平洋戦争を通じて華々しい戦果をあげることなく、昭和20年(1945)4月6日沖縄戦を援護するため乗組員3332名で特別攻撃の為出撃、翌7日鹿児島県坊ノ岬沖で386機の米軍機の攻撃を受け沈没した。戦死者は3056名に及ぶとされる。

以上が一般論でここからがこの番組の核心部分になるが、

大和の主砲は世界最大の46センチ砲9門で1発の砲弾重量は約1.5トン、最大射程が42kmに及ぶ。(当時の仮想敵国米国最大戦艦アイオワの主砲は40.6センチ最大射程38km)

42km先と云えば、地球が丸いことから水平線の下方に当たり大和の艦橋からは観測出来ないことになり、航空機を飛ばし敵艦への着弾観測を上空から行う必要が生じる。(艦に設置された測距儀で観測出来るのは最大25km程度)

この為大和には飛行科と云う部門があり41名が所属、艦後方に複葉2人乗り零式観測機、単葉3人乗り零式水上偵察機、何れもフロート付き5~6機を搭載可能であった。

主な任務は弾着観測、索敵、対潜哨戒であった。

発艦は艦後部のカタパルト(射出機)から発出、着艦はフロートで水面に降りた機をクレーンで引き揚げ翼を折り曲げ台車に乗せレールやターンテーブルを通じて艦内に格納され、46センチ砲の砲撃で生じる爆風対策が厳重にされていた。

この観測機や偵察機はフロート付きである為戦闘能力に限界があり任務途中で米軍機に遭遇すると常に撃墜されると云う危険に付きまとわれた。

大和の沖縄特攻では零式水上機1機が搭載され乗員3名で出撃後艦前方の哨戒索敵任務の後、鹿児島県指宿基地に無事帰投した。

番組の終盤生き残った整備兵などの飛行科員が残した大和の最期・沖縄特攻を描写した手記が紹介される。

◉いつ観ても聞いても読んでも日本軍が壊滅する描写は辛いものがある。しかし時代に合わなかったとは云え当時世界一の技術力を示した艦が有ったこと、そこに今まで知らなかった飛行機の搭載と云う事実があったことを知ることが出来て知的な満足感が残った。

◉今日の一句

 

盆の度遠く成りゆく里の墓所

 

◉施設介護棟の屋上庭園 ランタナ

◉玉虫の写真を何時もの場所に掲示させて貰った。

 

 

「空海はいかにして空海となったか」

武内孝善(たけうちこうぜん)著「空海はいかにして空海となったか」角川選書刊を読み終えた。

著者は空海が開いた高野山にある高野山大学に勤務される教授で、空海伝や真言宗成立史を含む日本密教史の専門家とのことである。

日本仏教の父といわれる弘法大師空海は云うまでもなく遣唐使の一員として大陸に渡り密教を受け継ぎ持ち帰り、密教真言宗の開祖となった人物である。

私の生家は密教とは対極にある浄土真宗本願寺派門徒であったが、集落の辻辻には弘法大師を祀った祠があり年一回「お大師様(おだいっさま)」と呼ばれる行事があったり、母親からちょっとしたケガをしたときなど薬師如来真言である「オン コロコロ センダリ マトウギソワカ」を意味不明なまま教わったりして何故か弘法大師が身近に有ったような気がしている。

真言は古代インド由来のサンスクリット語梵語)で、唱えることに意味があり訳すものではないらしいが、敢えて云えば「帰依し奉る薬師仏様病魔を除きたまえ払いたまえ」との意が含まれているらしい〉

その為弘法大師をもっと知りたいと思うのだがそれは密教とは何かと云った宗教的な面ではなくあくまでも歴史的存在としての興味である。

この本は私の希望に沿い宗教の部分に深入りせず、今まで空白だらけであった、空海遣唐使の一員として唐に渡り、密教の師となる恵果阿闍梨(けいかあじゃり)の眼鏡にかない密教を受法し、日本に初めての膨大な量の経論・曼荼羅密教法具などを持ち帰るまでの前半生を、史料を丁寧に読み進めることで可能なかぎり復原しようとするものである。

その中の一例として今までの説を覆す空海の生誕に関わることがあり以下に書き出しておきたい。

司馬遼太郎さんの代表作のひとつ「空海の風景」では、

空海の生誕の地はいまの善通寺の境内である。

と書かれている通り、今まで多くの研究者の共通の理解は空海は父に繋がる佐伯直(さえきのあたえ)氏の本貫地(本籍地)の讃岐国多度郡(現在の香川県善通寺付近)で生まれたとされてきた。

著者は空海の母が阿刀宿禰(あとすくね)氏の出身であったことに着目し、空海は母親の実家がある畿内で誕生し10歳位迄の幼少期に学者の家系である阿刀一族から基礎的な学問教育を授けられたと結論付けている。

この結論を補強する事実として主に以下の3点を挙げている。

・母の出自である阿刀宿禰氏が讃岐国に住んでいた記録がない。

・この当時の婚姻の形態が妻問婚(つまどいこん・夫が妻の家を訪れ関係を維持する)であった。

空海の父に連なる佐伯直一族の人たちが地方在住者としては異常な高い位階を帯びていて中央畿内に生活の拠点が有ったと思えること。

また空海の飛び抜けた学力や各種能力は、幼少期からの特別の教育なくしてあり得ないことがこの畿内誕生説の考え方の底辺にある。

◉今日の一句

 

新涼や鳶はゆるりと輪を描いて

 

◉施設介護棟の屋上庭園、懐かしいホウズキ(鬼灯)

空海はいかにして空海となったか」

 

空旅中国・西太后の逃亡

NHKBS に「空旅中国」と云う番組があり、歴史上の事実と中国の地理を組み合わせ、空からのドローン映像を駆使し毎回のテーマに応じその地でのエピソードなどが語られる。

私はその時のテーマによって時折録画していて今まで「秦の始皇帝の国内巡行」や「留学生・空海がたどった旅路」などを観てきた。

今回は「西太后の逃亡」と云うテーマで、西太后は中国最後の王朝である「清(しん)」末期の毀誉褒貶(きよほうへん)の激しい最高実力者で興味を持ち録画再生した。

語り手は女優・尾野真千子さん、番組の内容は

・1900年列強の中国侵略に抗する排外秘密結社・義和団が蜂起、これに西太后が支持を与え欧米に宣戦布告したため、日本を含む八ヶ国が連合軍を組織し居留民保護を名目に北京に進撃、義和団を敗走させ北京を解放した。いわゆる義和団事件・北清事変である。

(余談ながらこの事件を列強の立場で描いた映画がチャールトン・ヘストン主演の1963年の米スペクタクル映画「北京の55日」である)

西太后は連合軍の追及をかわすため時の皇帝・光緒帝を連れ庶民に変装、古都・西安を目指し少人数での逃避行を開始、約2ヶ月かけて西安にたどり着いた。

・この間西太后がたどった道筋の村や街には色々な言い伝えが残されていて紹介される。

(逃避行の前半は追及を恐れ山を越え寝る場所にも困る苦難の道だったが、後半は清朝の地方組織が活きていたお蔭で恵まれたものであったらしい)

・連合軍の北京占領は約1年間続き、清朝義和団に対する政策変更、中国の半植民地が進行する北京議定書の締結、を経て西太后は1902年1月北京に帰るが、清朝滅亡に至る辛亥革命(1911~)迄10年を切っていた。

義和団事件から辛亥革命に至る中国近代史はよく理解しているつもりだったが、西太后西安逃亡はこの番組まで知らず番組のお蔭でよい勉強になった。

◉今日の一句

 

朝まだき新涼海より渡り来る

 

◉施設介護棟の屋上庭園、キバナコスモス(黄花秋桜