ふるさと厚狭の前方後円墳の学び直し②

厚狭・長光寺山(ちょうこうじやま)古墳の概要おさらい

送ってもらった現在の状況

場所:厚狭川の下流域に掛かる下津橋の西側約800mの位置にあり厚狭盆地を西南側から見下ろす標高64mの丘の上にある。

下津はその名前の通り河口汽水域にある古くからの港で周防灘と繋がり、厚狭盆地を扼する交通の要地である。

厚狭毛利家の菩提寺・洞玄寺(とうげんじ)は毛利家入部以前は長光寺といわれた寺で、古墳は寺の西南の裏山にある。

築造時期古墳時代前期・4世紀後半

規模:全長約58m、後円部径約38m高さ約6m、前方部幅約26mーーー山口県内で6番目の大きさ、(前期に絞ると2番目)旧長門国内では3番目の大きさである。

東西二基の竪穴式石室がありそれぞれの全長は、主と推定される西側が6.85m、従と考えられる東側が5.7m前後あり血縁関係にある複数の人物が埋葬されたと想定される。

[主な副葬品遺物]下記の他に散逸や盗掘があったと推定されている。

厚狭図書館に保管されているその一部

仿製三角縁神獣鏡(ぼうせいさんかくぶちしんじゅうきょう)3面;日本製の三角縁神獣鏡(縁の断面が三角形で鏡の裏の文様が理想郷を表す神像と獣像で構成されている銅鏡)であり、同笵鏡(どうはんきょう)といわれる同一の型を用いて定型化されたもので、各地の古墳で見つかったものと同型が分有されていることが判明しており、ヤマト王権から下賜されたことを裏付ける。

舶載内行花文鏡(はくさいないこうかもんきょう):銅製の輸入品、文様が花弁に見立てられ国内外で広く出土し中国・後漢の時代に流行したとされる。

碧玉製鍬形石(へきぎょくせいくわがたいし):先行する弥生時代から、大型の貝で作った腕輪を権力の象徴として使用していたが、ヤマト王権はこれを真似て碧玉製の鍬のような形をした腕輪を作り各地の首長に古墳の副葬品として配ったとされる。

巴形(ともえがた)石製品:盾や矢を入れる矢筒に取り付けるお守り兼飾り。

筒形銅器:杖、矛(ほこ)、槍などの柄の先端や短剣の柄に挿入して使われ、内部に丸玉などを入れて鈴のようにしたともいわれるが、これと同じ効果を出すため銅の棒が入れられたケースもある。

鉄剣(両刃)&鉄刀(片刃):被葬者が成人男子の場合に副葬される例が多く邪悪なものを避ける働きがあるとされる。

鉄製鏃(やじり):2~3世紀に普及したと考えられ、矢の先端に取り付けるもので従来の石製に比し格段に強い破壊力を持ち、剣などと同じ目的があったと考えられる。

円筒埴輪(えんとうはにわ):古墳を邪悪から守る結界のような役目を持ち通常列状に並べられた。

家形埴輪:被葬者の居館を模したと考えられ通常石室の真上に置かれた。

土師器(はぜき):文様の付いていない素焼きの容器

🔘今日の一句

 

街うらら着信音が行き交いて

 

🔘施設の庭、建物の蔭でひっそりと咲くハナニラ

 

ふるさと厚狭の前方後円墳の学び直し①

知る人は少ないが、私のふるさと山口県厚狭(山陽小野田市)には二つの前方後円墳遺跡(長光寺山古墳、妙徳寺山古墳)があり、このブログでも書いたことがある。

その後4月5日と9日のブログに書いたNHKスペシャルのTV番組や、関連の幾つかの本を読み、それらの疑問点などを「山口県埋蔵文化財センター」へ直接問い合わせをしたり、厚狭図書館に保管されている発掘された副葬品をも視認したことで、これまでとの重複を恐れず今一度この遺跡のことを自身の学びの為にも整理して書き残しておくことにしたい。

今回はその中の前書きである。

一般に古墳時代は日本列島が初期的な国家を形成していく時代とされ概略以下のように区分される。

前期;3世紀中頃~4世紀末

・(239)卑弥呼(ひみこ)が中国・魏(ぎ)に使者を送る・(248頃)卑弥呼死す ・(250頃)箸墓(はしはか)古墳が築造され、以後前方後円墳が西日本各地に首長墓として採用される      ・(369)朝鮮半島百済(くだら)から七支刀を贈られる

中期:5世紀初~5世紀後半

・(413)倭(わ)の五王(4月9日のブログ参照)が中国・北宋(ほくそう)に使者を送る

後期;5世紀末~6世紀末

・(538)百済から仏教伝来・(600)遣隋使派遣

終末期:7世紀初~7世紀中頃

・(645)大化の改新 ・(663)朝鮮出兵白村江(はくそんこう)の戦い

ちなみに邪馬台国(やまたいこく)は3世紀前半に存在し、卑弥呼の死亡時期は3世紀半ばとされる。また5世紀は中国の歴史書宋書に書かれた倭の五王の時代で、ヤマト王権が強大になり統一王朝として確立したと考えられ、世界遺産にもなった「巨大古墳の時代」とも言われる。

一方4世紀は情報が極めて少なく「空白の世紀」とも言われるが、ヤマト王権が地方へ勢力を拡大していく成長期、過渡期とも考えられている。

古墳時代の首長の墓は前方後円墳前方後方墳、円墳、方墳の4種類がありこの順番に格上とされ、またその規模の大きさにも一定のルールがあったと考えられている。

現在卑弥呼の墓として最も有力視されているのが奈良県桜井市の全長280mの箸墓古墳で、これが3世紀半ばに築造されたとされる日本列島での最初の前方後円墳である。

大首長の葬送を前提にした前方後円墳は突如として誕生し、それまで各地にあった色々な墓の特色を集めて選択し、新たな意味を持たせて創造され体系化されたもので、日本列島内の中央や地方を併せた大きな力がこの誕生に働いていると考えられている。

(前方後円墳の誕生に向けて地方の首長も包含した円卓会議があったと説く歴史家もいる)

ヤマト王権は武力以外でも様々な影響を地方へ及ぼそうとしたと考えられ、そのひとつが葬送に於ける前方後円墳などの築造規格や鏡などの副葬品(ふくそうひん・共に埋葬される死後に必要と考えられた物品)の地方首長への配布である。

この事は前方後円墳が基本的に相似形であること、同じ型を使った副葬品の鏡が各地に分布していることなどによって裏付けられる。

前方後円墳では被葬者は基本的に後円部の墳頂下に埋葬され、前方部では葬送の祭祀が行われ、周囲に魔除けや儀礼などの意味を持つ埴輪などが置かれたと考えられている。

🔘今日の一句

 

木(こ)の間から明かりほんのり山躑躅(やまつつじ)

 

🔘近くの県有林の樹木の間に自生しているツツジの仲間(ヤマツツジ?)、中に踏み入ると暗い林のなかでツツジの咲いている辺りが明るく見える。

 

NHKスペシャル古代史ミステリー②ヤマト王権 空白の世紀

NHKの番組・古代史ミステリーの第2集は「ヤマト王権 空白の世紀」と題するもので、ヤマト国の原点というべき3世紀邪馬台国卑弥呼の時代を経て4~5世紀のヤマト・日本を描こうとする試みである。

中国南北朝時代の5世紀、南朝・宋の歴史書宋書倭国伝」に宋と冊封(さくほう・宋の天子の命令書により倭の国王に封ずること)関係を結んだ5人の倭国王の名前が記録されている。

それぞれ讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)と名乗り、一般的に彼らが活躍したとされる5世紀の日本は「倭(わ・ヤマト)の五王の時代」と呼ばれる。

五人は「古事記」や「日本書紀」などの記述を踏まえ諸説あるなか、応神(おうじん)、仁徳(にんとく)、履中(りちゅう)、安康(あんこう)、雄略(ゆうりゃく)各天皇などに比定されている。

5世紀、倭の五王の時代は統一王朝としてヤマト王権が大きな権力を手にし、東アジアの動乱のなかで鉄原料などを求めて朝鮮半島にも進出し、半島の強国・高句麗(こうくり)などとしのぎを削るいわばヤマト王権が日本列島に確立した時期とも言える。

この裏付けのひとつとして説明されるのが近年朝鮮半島で相次いで発見された前方後円墳で、その副葬品と併せこの地に居た倭人を葬った証拠とされる。

また当時の高句麗の王・広開土王(こうかいどおう)の事績が書き遺されている「広開土王碑」にも倭国朝鮮半島への進出が記録されている。

この背景として番組で説明されるのが大陸や半島からの技術導入をベースにした倭国に於ける鉄加工に関する技術革新、騎馬や甲冑生産などの軍事技術革新などである。

3世紀の邪馬台国時代、5世紀の倭の五王の時代の間の4世紀を「空白の世紀」と呼ぶ見方もあるが、一連の推移を見るとこの時期はヤマト王権が日本列島内部に広く浸透し統一王朝に成長する過渡期であり、そのヤマト王権のシンボルとして王権の伸長に併せ列島に広く行き渡るのが前方後円墳と考えられている。

これらの内容を踏まえ、ふるさと厚狭で発掘された長光寺山古墳、妙徳寺山古墳を今一度次回から考えてみたい。

🔘今日の一句

 

あと幾度巡り逢えるや花の時季(とき)

 

🔘健康公園のビオトープ(生物生息空間)エリアのツクシ(土筆)、見たのは何年ぶりだろうか、懐かしい。

🔘今朝は雨風の後で花びらのじゅうたんを歩いて来た。

 

園芸サークルの日/施設の桜・サクラ・さくら

🔘今日は月2回の園芸サークルの活動日で主な仕事が、

①西瓜を植える畑の準備

②収穫を終えた茎ブロッコリー(スティックセニョール)の撤去

スナップエンドウのツルの整理

等であった。

久し振りにスコップを持って茎ブロッコリーの根を掘り返す作業をしたが、根が強く張っていて結構な労力が必要なことに驚いた。

スナップエンドウ畑と豆の花

🔘4月7日施設の庭、桜とチューリップなど

🔘施設の屋上から隣のゴルフ場の桜、遠くに明石大橋

施設介護棟の庭

 

 

 

 

NHKスペシャル古代史ミステリー①邪馬台国(やまたいこく)の謎に迫る

NHKスペシャルに「日本の起源に迫る」とのキャッチフレーズで新しいシリーズ・古代史ミステリーが誕生し、第一集は「邪馬台国の謎に迫る」と題して新たな知見などを踏まえ女王・卑弥呼(ひみこ)の姿を探ろうとする番組である。

今まで日本の中世以降が興味の対象であったが、ふるさと厚狭の二基の前方後円墳に触れて、これを理解するためには少しは古代史についても学ばねばと思い始めた矢先、邪馬台国は大和(ヤマト)であるという文藝春秋の記事に出逢い3月10日のこのブログに書いたばかりである。

折角の機会なので厚狭の前方後円墳に少しでも接近すべく、番組と並行して水野正好著「島国の原像」吉川弘文館刊、吉村武彦編「新版古代史の基礎知識」角川書店刊を読みながら学んでいきたい。

邪馬台国はどこにあったのかについて、九州説も取りあげているものの、番組では纒向(まきむく)遺跡の木材や箸墓(はしはか)古墳の最新年代分析から卑弥呼が生きかつ死亡した3世紀の年代と重なることに着目し、大和(ヤマト)説に大きく傾いているように見受けられる。

魏志倭人伝」に書かれた内容やこれまでの最新研究から、番組の卑弥呼に関する特徴的な理解は以下の通りである。

・当初、卑弥呼は小国の連合体のなかで鬼道(きどう・道教)の力でまつり挙げられた女王であった。

卑弥呼が率いる邪馬台国は日本の西部を地盤にしたが、これに敵対する狗奴国(くなこく)は東国を地盤にしてその戦乱が長く続いた。

・小国をまとめこれを打開すべく卑弥呼は、三国志の時代、魏(ぎ)・蜀(しょく)・呉(ご)の三国が争う中国の内、最大勢力・魏に使者を送り、呉を牽制する意図を伝え魏の協力と「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号を得た。

邪馬台国のシンボルは前方後円墳、狗奴国のシンボルは前方後方墳だが、地形をAIで解析すると卑弥呼の時代3世紀以降東国でも前方後円墳が増加していることがわかり、これ以後日本は統一に向かう。

・この要因になったのが邪馬台国が魏と結んだことや渡来人の受け入れで得られた技術革新(土木治水技術や鉄の入手など)である。

前方後円墳である箸墓古墳卑弥呼の墓という前提に立つと、前方後円墳というのはヤマト王権の祭祀と政治のシンボルであり、必然的に卑弥呼ヤマト王権の最初の王ということになる。(この解説と3月10日ブログの内容が結び付いたことになる)

🔘我が事ながら、厚狭の前方後円墳(長光寺山古墳、妙徳寺山古墳)に少しずつ近付いているような気がしている。

🔘今日の一句

 

五分咲きに情け掛けるや花の雨

 

🔘健康公園、ホトケノザ(仏の座)

 

 

 

 

4月句会

昨日は定例の4月句会で、お二人が都合で欠席、13人の参加であった。

私はブログに載せたり手元に控えていた中から次の5句を出した。(今月の兼題:四月馬鹿)

①春の海雲映しとり墨絵描く

・ベランダから海を見ていて、海の色が上空の雲の濃淡をそのまま映し出していることに気付いて詠んだ。

海の色は時々刻々と千変万化するのを実感している。

 

②青き瀬戸白き水脈(みお)曳く暮れの春

・これも海を眺めていて、船の種類により非常に長く航跡を曳いて通る船がある(船によっては殆んど航跡を曳かないものもある)ことに気付いて詠んだ。

特に潮の流れと船の進行方向も関係しているような気もする。

 

③故郷の墓前にひとり東風(こち)わたる

・先日帰省した折りの心情である。

 

④鍬入れて匂い仄(ほの)かに土の春

・園芸サークルに入れてもらい、数年振りに鍬を握って土に入れたときの懐かしい感触や想いを詠んだ。

鍬使いは自分の身に付いている気がする。

 

⑤あの頃に帰りたしとて四月馬鹿

兼題を受けてふと浮かんだ句です。

 

結果は

①が3人に並選、

②が2人が特選に、1人が並選に、

③が1人に並選、

④が2人が特選に、1人が並選に、

⑤が1人に並選、

と、5句全てに選に入れて頂いた。特に②と④の句に2人づつ特選に入れて頂いたことは今までにない好成績で素直に嬉しい結果である。

特に②と④は推敲に時間を費やし、自分の中でも満足な出来と思っていただけに、自他の評価が一致して殊更嬉しい結果である。

私が特選に挙げた句は

 

一画の気がかりに辞書田螺(たにし)鳴く

 

俳句を短冊などに書き込む際、パソコンでは無理で筆記するしかないが、この場合字の一画が果たしてこれで良いのか迷いスマホやパソコンで確かめることが多く共感した。

🔘施設の庭、チューリップ、チューリップ