新日本風土記「九州小倉 祇園太鼓の夏」

テレビで最も好きな番組を挙げろと云われると、少なくともその候補のひとつはNHKBS の「新日本風土記」である。

全国各地の知らなかったことを知る面白さがあり、今回は福岡県北九州市の小倉区にある八坂神社の祇園祭で打ち鳴らされる「小倉祇園太鼓」がテーマである。

この祇園太鼓と聞くとある程度の年齢以上の人には馴染みの「無法松の一生」が思い浮かぶ。

地元出身の作家・岩下俊作の小説「富島松五郎伝」を下敷きにして何度か映画化され、村田英雄さんが唄った歌は古賀政男作曲で大ヒットした。

♪︎♪︎小倉生まれで 玄海育ち 口も荒いが 

               気も荒い♪︎♪︎

番組では祇園太鼓に関わる人々と重ね、火災に二度見舞われた小倉旦過(たんか)市場で商いに奮闘する人々や、地元の紫川の再生に取り組む人々などが紹介される。

これらも見応えがあったが、私が最も興味を覚えたのは番組中説明があった次のような内容で、私の故郷にも関連する新しい知識が得られた。

元々この祇園祭関ヶ原合戦後、徳川方に付いて加増され小倉に入った細川忠興が、京の八坂神社(祇園社)を勧請して八坂神社を建立、京の祇園祭を取り入れたものと云われる。

細川氏が肥後熊本に転じた後、小倉に入った小笠原氏にも祭りは受け継がれ、小笠原氏の藩政時代に現在のような太鼓が成立した。

幕末、朝敵となった長州藩を全国の大名を動員して幕府が攻めた第二次長州征伐(四境戦争)で、四境のひとつ九州小倉口の戦いでは小倉藩は幕府の主力として参戦した。

長州藩高杉晋作山県有朋の指揮のもと海を渡り門司から小倉ヘと逆に進攻、小倉藩小倉城を自焼して撤退、その後も引き続く小倉兵と長州軍との戦いなどで小倉は疲弊、祭りや太鼓の古式が失われ、現在のような形式で復活するようになったのは明治時代末期頃と云われる。

以前このブログで触れたように、この小倉口の戦いにはふるさとの厚狭兵が長州軍の一隊として「強義隊」の名で士卒86名と多数の夫卒が従軍した。

「新日本風土記」で図らずも郷里の歴史とスレ違うことになった。

🔘今日の一句

 

草むらの音色移ろふ夜の秋

 

🔘施設の庭のイチジク(無花果

イチジクも子供の頃はそこら中で手に入った懐かしい果実で、去年は鳥の餌になるのを見ていたので、職員さんの了解を得て少しもいで来た。

一緒に連れて来た小蟻を選り分けつつ試しに食べてみたが、残念ながら子供の頃記憶した味とは全くかけ放れたものであった。