「木曽義仲」

下出積與(しもでせきよ)著「木曽義仲吉川弘文館刊を読み終えた。著者は大学教授などを歴任した日本史の専門家で1998年に亡くなられている。

源頼朝義経など源氏の正統と目される人物についての研究書は多いが木曽義仲(源義仲)に関しては非常に少なくこれはその数少ないなかのひとつである。

木曽義仲は頼朝や義経の父・源義朝(よしとも)の弟・義賢(よしかた)の子であり頼朝とは従兄弟に当たる。

(大河ドラマ・鎌倉殿の十三人では木曽義仲役を青木崇高が演じていた)

久寿2年(1155)義朝の長男・義平(よしひら)が武蔵国(埼玉県)で叔父である義賢を襲い討ち取った。源氏は骨肉相争うケースが非常に多いがこの事件もそのひとつである。

父が討たれた義仲は当時2歳(駒王丸)、伝手を経て母と共に信濃国(長野県)木曾の土豪・中原氏を頼り木曾谷で成長、元服して木曾次郎義仲と称した。

治承4年(1180)平家打倒を呼び掛ける以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)が全国に発せられ、頼朝と時を同じくして義仲が平家打倒の旗を挙げる。

義仲は信濃上野国(こうずけのくに・群馬県)を席巻、越後国(新潟県)の平家を破った後、北陸道を経て都を目指し、平家が都落ちした後入京、征夷大将軍に任じられ旭将軍と称される。

周知の通りその後の義仲は部下の乱暴狼藉や自身の自然児的行動などに依り都の人心が離れ、頼朝が派遣した範頼、義経の軍に近江国(おうみのくに・滋賀県)粟津で元曆元年31歳で討たれることになる。

著者は武勇に優れた義仲が朝露のごとく消えていかなければならなかったのは、義仲自身に責のあることではあるが、頼朝と異なり腹心の部下に人を得なかったことが大きいと書いている。

滋賀県大津市には近江の国主・佐々木氏が義仲を弔うため建立したと云われる義仲寺(ぎちゅうじ)と墓碑がある。また俳人松尾芭蕉は義仲をこよなく愛惜したと云われ「骸は木曽塚に」との遺言により墓は義仲の墓の後ろに建てられた。

伊勢の俳人・島崎又玄(ゆうげん)はここで

【木曽殿と背中あはする夜寒かな】と詠んだ。

 

【朝凪に勇み乗り出す漁り船】

 

🔘健康公園のクスノキの花