山陽町史①古代・国郡制のなかの厚狭

中大兄皇子中臣鎌足等による蘇我氏打倒を契機にした「大化の改新」は元号の使用に始まる国家の骨格を定める改革を順次行う。

大化2年(646)孝徳天皇は改新の詔(みことのり)を発し、これまでの国造(くにのみやつこ)制を改め全国を国・郡・里(り)の行政区に分け国司(こくし)・郡司(ぐんじ)・里長(りちょう)を置いた。

里は50戸を単位として数里を併せて郡が、数郡を併せて国が成立した。穴門国(あなとのくに)は厚狭郡・豊浦郡・美祢郡・阿武郡・大津郡で構成され東隣に周芳国(すおうのくに)が置かれた。

後に穴門は長門(ながと)、周芳は周防(すおう)に文字が改まりこの二国が明治に成立した山口県である。

この時代は大家族制で1戸は3~40人から100人におよぶものもあったといわれる。

穴門は下関海峡の瀬戸が非常に狭く船があたかも穴に入るような地形であることから起こった名称と云われ、良き字に改めるとの中央の命令に従って長門に変わった。

長門国衙(こくが・国の役所)は豊浦郡に置かれ長門の府中の意味で現在も残る長府(ちょうふ)と呼ばれた。

厚狭郡には里から名称の変わった郷が厚狭郷を始めとして八郷あった。厚狭郷はこの頃「あつさ」と読んで安都佐とも表記した。

厚狭郷は旧厚狭町(厚西村・出合村)の領域と重なると考えられている。

また厚狭郡の郡家(ぐんけ・郡の役所)は旧県立厚狭高校南校舎の辺りに郡小路(こおりしょうじ)などの地名が残されていることからも、この付近に在ったと考えられる。

🔘私たちが子供のころ学校で習った「山口県民の歌」二番には以下のように最も古い国名が使われている。もとより当時はその意味を全く知らないままに歌っていたのだが。

♪︎♪︎周芳穴戸の いにしえを
    つぎし大内 毛利らが
    代々えの とめて
    伝統永き 文化
 
りと使命 れめや
山口県の らみな♪︎♪︎
 
【見下ろせば山に若葉の衣着て】
🔘介護棟の庭、ヒメウツギにアオスジアゲハが蜜を吸いに来ている。