下関の歴史絵図/長州藩越荷方(こしにかた)のことなど

山口県下関市立歴史博物館では現在「タイムスリップ!~絵図・地図に描かれた昔日の下関」と題した企画展が開催されている。

ホームページを見ると下関(江戸時代は赤間関)に遺る、江戸時代から近代にかけての絵図や地図を展示して昔日の様子や街並みの変遷を紹介し、西日本屈指の海港都市として発展した下関の姿を振り返るものであるらしい。

この関連イベントとして「徹底解説!絵図・地図の見どころ」と題した講座があり、それに出席した山口県在住の同級生から参考にと資料を送ってもらった。

資料には江戸時代から明治にかけての下関の絵図が載っており、当時の非常な賑わい、オランダ人が見た下関の様子、幕末の下関戦争(長州藩と4ヶ国艦隊との戦い)、明治の埋め立てにより地形が変わった様子の絵図なども収録されている。

この絵図からも江戸時代の下関の繁栄は良くわかるが、近松門左衛門がその人形浄瑠璃のなかで「西国一の大湊(おおみなと)」と表現し、出船千艘入船千艘とも言われた。

その元は北前船(日本海)、瀬戸内海、九州各航路の結節地であることからきており、例えば全ての北前船が寄港したとも言われ、大量の物資を引き受ける問屋、水夫、荷役夫、船大工が集まり、また船主、荷主を対象に倉庫金融業も発達した。

私が神戸に引っ越して初めて登った近くの「旗振り山」は大阪の米相場を旗信号で西国に伝える中継地のひとつで、最終信号到達地は下関であったと言われる。

荷主は下関の倉庫に米や商品を預け大阪の相場を見ながら出荷し、もし当座の利益が得られそうにない場合は次の積み荷購入のために倉庫金融業から金を借りるわけである。

長州藩(萩藩)では明和期(1764~1772)、藩営の倉庫金融業「越荷方」を下関・新地に置き、積み荷を保管する倉庫業、積み荷を買い取り販売、積み荷を抵当にした資金の貸付などを行った。

越荷とは北前船の積み荷を指す当時の言葉である。

下関の大部分は基本的に長府藩領であったが、この地に僅かな飛び地しか持たない本藩・長州藩がその収益を得る手段として設置した機関が越荷方であり、設置後も長府藩清末藩との軋轢や興廃を繰り返しながら運営された。

長州藩はこの活動に依って得た莫大な資金などを、一般会計から切り離した特別会計・撫育金(ぶいくきん)として積み上げ、尊皇攘夷、倒幕運動の軍資金などにも使ったと言われる。

この越荷方、下関攘夷戦争、高杉晋作の下関挙兵などを考えると、下関が明治維新の起点のひとつになっていることは間違いない。

 

【春愁や金子みすゞに涙して】

 

🔘施設の屋上、あやめと思われる。