厚狭毛利家代官所日記No56慶応3年(1867)盗難事件始末

8月18日から29日までの記録の要約

内船木の吉見屋与七の養子・吉次郎は腰物商(刀剣、印籠、巾着など腰に着けるものを商う)を営んでいたが、生活に困り懇意にしていた有帆村の商家とお寺に夜間盗みに入り以下の物を持ち出した。

・寺の分~蚊帳、衣服、白木綿、金子少々

・商家の分~脇差2本、刀1本、煙草入れ1個

先方(被害を受けた側)から吉次郎に問い合わせがあり盗品は全て先方に返し内々で済ますことで了解も得た。

与七は吉次郎が生活に困っていたことは知っていたが別家に住んでおり盗みのことは全く知らなかったが父子の関係から誠に申し訳なく思っている。

代官所ではこの件を表沙汰にすると牢入り処分が妥当と判断していたが被害の側2者が何れも内済で構わないとしたことから、最終的に本人吉次郎を領外退去身元へ差し返し処分、与七は父子として犯罪を気付かず不束(ふつつか)として張紙閉戸(はりかみへいこ)処分が言い渡された。

(張紙閉戸は長州藩の刑罰のひとつで罪状と期間を書いた書付けを門戸に張り、道路に面する窓を閉ざし昼夜の謹慎と他人の出入りを禁じる)

🔘被害者側が内々で済ますことを了解したとはいえ当時の盗みの処分にしては極めて寛大な処分のように見える。日記に書かれていない事情があったのかもしれない。

 

【囀(さえず)りに朝の体操背を押され】

 

🔘近くの庭のムスカリ