「子規断章・漱石と虚子」

日下徳一著「子規断章・漱石と虚子」朝日新聞出版刊を読み終えた。

34歳の短い生涯で多彩な文芸活動を行い特に近代俳句や短歌の祖といわれる正岡子規についてその足跡を追い、特に交友のあった夏目漱石高浜虚子河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)等との関係を取りまとめたものである。

子規の生涯についてはおよそのことは知っていたが最近俳句を始めた初心者にとって、子規の俳句を継ぐ人たちの子規への想いや活動は新しい知見として貴重なものになった気がする。

・子規の死後その俳句を受け継ぐ双璧が高浜虚子河東碧梧桐であることは知られているが両者は、碧梧桐の俳句を虚子が批評したのに端を発して論争、互いを認めつつ生涯にわたって袂を別つ。

碧梧桐の死後その死を悼んだ虚子の俳句が「碧梧桐とはよく親しみよく争ひたり」と前書きして、

【たとふれば独楽(こま)のはぢける如くなり】

漱石はもし虚子に出逢わなかったら小説家にならなかったかもしれない。漱石は英国留学中や帰国後も神経衰弱に悩まされたことはよく知られ、心配した妻が虚子に漱石を外に連れ出すことを頼むが興味を示さない。

そこで虚子は漱石に文章を書かせることを思い付き勧めた結果「ホトトギス」に発表したのが「吾輩は猫である」で予想外の好評を博した。

これに刺激され虚子も小説を発表、更に仲間の伊藤左千夫野菊の墓鈴木三重吉「千鳥」、森鷗外「護持院原の敵討(かたきうち)」等につながる。

🔘こうして見ると正岡子規の人脈が日本の近代文学に計り知れない程の影響を与えたことがよくわかる。

🔘小束山県有林の坂道でふと見上げると、頭上から足もとを照らすように山椿が咲いていた。

 

【山椿暗き苔(こけ)道照らしおり】