長登(ながのぼり)銅山跡と奈良の大仏

最近このブログでは、長い間追跡している厚狭毛利家が長州藩の内戦いわゆる大田・絵堂の戦いで負け組になった処まで書いてきた。

ちょうどこのとき、山口県在住の同級生から美祢市美東町にある大田・絵堂戦跡に行ってきたとの便りがあり同じ美東町にある長登銅山跡地にも寄ったとのことで写真を送ってもらった。

この長登銅山は、昭和63年(1988)の東大寺発掘調査で、銅の成分分析から奈良の大仏創建時の原料銅の産地であることが実証されている。

この地はカルスト台地秋吉台の近く東南部に位置し、古くから「奈良の都に銅を送ったので奈良登りがなまって長登になった」という言い伝えがありいわば伝説が現実となった事になる。

平安時代に編纂された歴史書日本三代実録」にみえる「長門国採銅所」に比定され銅銭の材料にも使われた。

遺跡は平成に入って調査が進み、採鉱から精錬まで一貫したシステムの運用がされた国営銅山であることが分かり、さらに周辺からは多種多様な生活遺物も出土している。

特にこの遺跡から平成に入って発掘された木簡(もっかん)「長登木簡」は全部で800点以上その内文字が判読出来るものが約200点有り天平(てんぴょう)時代の官の様子や銅の生産システムがよくわかり、山口県や日本の古代史に新たな史料を提供した画期的なものである。

東大寺大仏はこの他にも以下の通り、僧・俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)を通じ山口県にゆかりがある。

治承4年(1180)平家の軍勢が敵対した南都・奈良を焼き討ちした際、大仏殿など大半が焼け落ちた。

翌年、重源は自ら再建を申し出て「東大寺大勧進(とうだいじだいかんじん)」に任ぜられて寄付を募り、文治元年(1185)後白河法皇を迎えて開眼法要を実施、翌文治2年(1186)周防国(すおうのくに・山口県)が再建のための御料所として宛てられることになり重源は国司として周防国に赴任、再建のための用材切り出し運搬を現地(佐波川周辺)で指揮し赴任後9年経過した建久6年(1195年)遂に大仏殿の再建を果たす。

🔘その後戦国時代にも大和周辺を巡る三好、松永党

の戦いで東大寺は焼失するも江戸時代に入って再建された。

このように戦乱の被害を受けても再建され今日まで東大寺諸伽藍、大仏が維持されているのはその価値が多くの人に支持されている事に他ならず、これに山口県(長門国周防国)の歴史が関わっていることは県にゆかりの者にとって誇りでもある。

🔘毎朝歩く健康公園の脇で名前はわからないが小さな花を付けた植物が急に目立ち始めた。

 

【路傍には  耐えて凌いで  秋の花】