「街道をゆく・長州路」⑤最終回・忍びぬまま

吉田松陰が主宰した松下村塾の塾生で、松陰自ら4人の俊秀として挙げたのが、高杉晋作久坂玄瑞吉田稔麿入江九一である。
彼らは全て明治維新を見ることなく死ぬことになり「革命では第一級の人物が非業の死を迎え二級の人物がその果実(権力)を得る」という言葉が真実味を帯びて聞こえる。

吉田稔麿(よしだとしまろ)は足軽階級出身ながら、その才で士分を認められて名字も許され他藩にもその名を知られた。

元治元年(1864)6月5日京の二条の旅籠(はたご)・池田屋新撰組が突入、長州人を含む多数の勤皇派が斬殺されたがこの中に吉田稔麿がいた。
このことを描いた司馬遼太郎さんの「街道をゆく・長州路」の抜粋

『幕末の長州の若者のなかで、吉田稔麿というのが好きである。例の新撰組池田屋事変のとき、沖田総司と戦って死んだ。ーーー』

池田屋の二階で諸方の志士と会合中に新撰組に襲撃され、かれは応戦して肩先に一太刀あびたが、この変事を藩邸の同志に報せるべく囲みをやぶって脱出し河原町藩邸にとびこんだ。ーーーーー
稔麿は藩邸内にとどまることをせず、手槍をとって駈けだし、絶望的な状況にある池田屋にとびこんで、自分の春秋を自分で捨てたのである。ーーー

そのおよそ無意味な死のなかへふたたび戻っていったのは、松陰の推賞する稔麿の「頑質(がんしつ)・かたくなさ」であり、それ以上にかれのもっている仲間へのいたわりというものがそうさせたにちがいない。つぎつぎに屠殺されていく仲間をそのままにしておくに忍びず「忍びぬまま」の情念だけで駈けだし、他に余念がなかったようにおもえる。ーーーーー』

『師の松陰にもそういう「忍びぬまま」の情念で駈けだすところが濃厚なほどあった。
久坂玄瑞にも入江九一にもそういうところがあり、松陰の叔父で師匠だった玉木文之進にもそのように「忍びぬまま」に駈け出す傾向が濃い。』

『長州人が怜悧であるとして他藩の同志から警戒されたのはすでに幕末の風雲の初期からである。しかしながら、その利口者の集団が、ただ利口なだけであったとすればとても天下などはとれなかったたであろう。
明治まで生き残った連中には生き残るだけの利口さがあったにちがいないが、それ以前に死んだ連中にこういう面があったればこそ天下の信を長州に繋(つな)ぐことができたということがいえるかもしれない。』

🔘司馬遼太郎さんの著作に於ける長州人についての記述には、陸軍の長州閥をはじめ批判的なものが多いというのが、山口県人の一般的な受けとめだが、「街道をゆく・長州路」を読み返してみてその印象はかなりゆらいでしまった。
有難いことに意外に好意的で、この章のように客観的な面が多いことが改めてわかった気がしている。

🔘「忍びぬまま」はヤマト言葉のように聞こえるが、漢語では「直情径行」が近いかもしれない。「直情径行」は儒教のような立場からすると考えもせずに行動に出るということでむしろ否定されるようなことであり、よい意味には使われない。しかし日本的な思考では肯定的に受けとめられる面があるような気もする。

🔘私も若い頃はこの「忍びぬまま」に駈け出すというところが多分に有った気がするが、いつの間にか歳と共に減っていき「頑質」だけが残っているのではと、このブログを書きながら自省している。

🔘健康公園樹木シリーズ 「クロガネモチ」 大金持ちになりそうな名前、今日も習慣通り歩いたが朝から暑い。