「街道をゆく・長州路」③怜悧(れいり)とは

6月19日の続き、長州人に関わる司馬遼太郎さんの「長州路」の記述を抜粋する。

【幕末になると水戸(藩)あたりでは、「長州人は怜悧という評判があり、うかつに手を結べない。結べばかんじんなところで体(たい)をかわされるおそれがある」という観察もあり、水長同盟というものがこれで流れたこともある。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。

そのくせ幕末の騒乱は長州人が演じた猪突猛進の行動とその灰神楽(はいかぐら)のたつようなさわぎを中心に旋回し、倒幕維新の時期を早めた。ーーーーー。
幕末の長州人は、ある角度からみればたしかに猪突猛進の感がある。が、例の何とかッポとはいわれない。
つまり、水戸ッポ、土佐ッポ、薩摩ッポと幕末にいわれた。
ッポというのが付くのは、利害をとびこえてなりふりかまわず突き進んでいく性格の集団の場合にいうのだが、ついに長州ッポとはいわれなかった。
長州は藩をあげて髪ざんばらの大童(おおわらわ)になり、ほとんど滅亡の淵ぎわまで突き進んでしまったのだが、それでもなおかつ長州ッポという印象がもたれないのは、怜悧さという他の集団にはみられないふしぎな属性が長州人にあったからであろう。ーーーーー長州人論はおもしろい。】

🔘怜悧とは人の賢さを表す表現のひとつである。
同様なものに利口、賢明、明敏、聡明等々があるが怜悧の中には他と違ってするどさや冷徹さが含まれているような気がする。
長州人を表すのに「怜悧」という言葉がくることに多少の反発を覚えつつ、冷静に歴史や風土を考えると妙に納得するものもある。

🔘長州人がこの怜悧という特質をもつことに至ったことで私なりに思い浮かぶのは以下のようなことで、これらの歴史がその底流にあるのではないかと考えている。

・毛利氏統治の以前、大内氏が治めた時代、大内氏は西中国から北九州を傘下に置き大陸との交易で得た富を背景に京の都にも進出、公家達を多数招くなど京文化を山口に積極的に取り入れた。

・毛利氏は関ヶ原の敗戦で中国地方8ヵ国120万石から防長2国36万石となったがその折8ヵ国の多数の武士が毛利氏と共に長州藩内に居住することになった。
当時の武士階級は知識階級でもあり、いわば8ヵ国の頭脳が2ヵ国に凝縮したともいえる。

大内氏は交易のこともあり、朝鮮半島百済の王族出身という説を自ら流した。
また毛利氏の時代、江戸へ行く「朝鮮通信使」は壱岐対馬を経て下関に到着するのが決まったルートであったように、長州は地理的に半島や大陸と近く、その文化や論理的思考の影響を早くから受けていた。

🔘これは全く私の個人的見解だが、軍隊風に云うと長州人は全体的に司令官・将帥(しょうすい)より戦略戦術をめぐらす参謀タイプが適しているような資質ではないかと以前から思っている。
参謀という職務は怜悧に相通じるものがある。


🔘健康公園、樹木シリーズ 「スダジイ
何だか爺さんの名前のようで自分が呼ばれているような気がして少し抵抗があるが、椎(しい)の仲間でドングリがなるらしい、秋が楽しみ。