厚狭毛利家代官所日記㉒文久2年④領内での宗門トラブル

江戸時代はキリスト教を禁ずるための宗教統制が有名だが仏教内でも寺毎の檀家リストが宗門人別改帳(にんべつあらためちょう)として戸籍代わりになり、領地内の政治統制にも使用されていた。

通常この寺と檀家の関係は親子代々受け継がれるが、人が移動した場合には信仰上のトラブルも有ったようで、厚狭毛利家が厚狭川河口で領地拡大のために開いた干拓地・梶開作(かじかいさく)での事例が厚狭領内の民政を記録した代官所日記に書かれている。

文久2年(1862)7月21日の記録を現代文に直す。

梶開作内に居住する松右衛門と申す者、今年の盆に洞玄寺(とうげんじ・曹洞宗・厚狭毛利家の菩提寺)よりお経をあげるため出向いたところ、皆と違いただ一人断ったとのことであった。
然し梶開作はかねてより洞玄寺門徒の他は不可との指示を下しており当夏も同様の指示を出した。
どういう心得なのか、庄屋へ連れ出しを申し付けて今日問い質した。

松右衛門は元来大島郡(周防大島)の者で、当地へ引っ越す際に大島郡の旦那寺(だんなでら・宗門人別改帳に登録して帰依する寺)より梶浦の西福寺(真宗)への依頼状を貰って来ており代々の真宗門徒なので、西福寺での弔いを受ける心づもりであり、洞玄寺門徒にはならないとの申し分であった。

このままでは梶開作内で住むことは差し止める他はないところであったが、庄屋より一応連れ帰って充分申し聞かせるとの申し出があり、翌日に次の通り申し出があった。

以上の記録のあとに7月22日付けで松右衛門の息子吉右衛門名の上申書が付いている。その要約は

・経過とお詫び
・今後の対応として、父親(戸主)松右衛門一人を洞玄寺門徒にさせて欲しい。自分は先祖従来宗門の位牌や仏事もあることからそのままにさせて欲しい。
・永年(約9年間)荒れ地状態であった頃から現在に至る努力と、これからも領内の統制に服することに免じてご沙汰願いたい。

この書面で代官所側は基本了解をしたようで、念のため父親の書面を要求、それに従い父親松右衛門名で庄屋宛てにお詫びと洞玄寺門徒を了解する上申書が出されている。

◎このケースでは領外追放や徒刑などの最悪な状況に至る前に、父親(戸主)のみの改宗で妥協が成立したようだが、現代の信教の自由から見るとずいぶん理不尽な仕打ちに見えてしまう。

それにしても一家の安寧のために自分を圧し殺さねばならなかった父親の心中は察するに余りある。
宗教が社会の統制に深く関わった時代の一断面と言える。

◎これはサボテンの花に当たるのだろうか?