薩摩藩家老・小松帯刀(こまつたてわき)

高村直助(たかむらなおすけ)著「小松帯刀吉川弘文館刊を読み終えた。
小松帯刀についてはこのブログでも2019年5月31日に「幕末の薩摩藩家老 小松帯刀」という題で新聞記事から少し触れさせてもらったことがある。
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従来から薩摩藩明治維新功労者は西郷隆盛大久保利通をその双璧とするのが一般的ながら、私は従来からこの二人に並ぶべきものが小松帯刀であり、一時期にはこの二人を超える存在であったと考えていた。

この本は歴史研究者が当時の史料をひもとき事実を元にその生涯を追跡したもので、これを読んで私が従来から考えていたことは決して間違っていなかったと確信した。

薩摩藩の家臣団最上層になる在地領主・一所持(いっしょもち)の家柄の出自で同格の小松家を継いで21歳から出仕、
11代島津斉彬(なりあきら)及び12代忠義(ただよし)の父で国父と称された島津久光(ひさみつ)に仕えて城代家老まで累進した。

私のふるさと長州藩文久3年(1863)「8月18日の政変」で朝廷や京都を追われ、この挽回を図るべく翌元治元年(1864)7月19日京都に攻めの上った「禁門の変」で敗退して朝敵になり存亡の危機に立つ。
この裏には常に薩摩藩があり京での責任者といえる小松帯刀が居た。敵ながら天晴れとしか云いようがない。

この後は共通の目的である倒幕を意図した薩長盟約を経て、大政奉還鳥羽伏見の戦いへとつながる激動の中で常に薩摩の中心的存在であり続ける。

更に維新直後は外交の役職を担当するも、下腹部腫瘍(しゅよう)その他で満34歳の若さで大阪で死去した。
葬儀は私にも馴染みのある大阪天王寺村・夕陽ヶ丘で行われたという。

病死早世がなければ明治維新の功労者として広く世に知られたはずである。

◎これも菊科だろうか?
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