厚狭毛利家代官所日記のまえがき・2月が2回ある?

厚狭毛利家の民政を記した「代官所日記」を読んで現代文に直しているが、慣れない事で文字や言葉、事象の意味が分からないことが多く何回も読み直したり、調べたりでなかなか進まない。

嘉永5年(1851)2月に起こった「異国船騒動」の辺りの記述を読んでいるのだが日付が閏2月23日とある。
その前に一度2月という記述があったのだが深く考えず記述が前後しているのだろうと思っていた。

この「異国船騒動」は萩の毛利藩本家ではどのように記録されているのかを調べるため、山口県立文書館に問い合わせしたところその過程で、同じ年で2月と閏2月という2回の2月がある事が判った。

これは当時、現在の太陽暦と違い太陰太陽暦という暦を基本としていたために生じたものらしい。
月の満ち欠けのみで表す太陰暦だと順次季節のズレが生じていくことを、太陽暦によって修正させる事で生まれるもので、3年に一度13ヶ月の年が出来ていたとのことである。

太陰暦は29日、又は30日の1ヶ月を12回繰り返して一年として年間354日となる。これでは太陽暦の1年365日と年間11日のズレが生じていくので3年に1回閏月を入れて修正する。

◎ふるさとの歴史を深く知りたくて「代官所日記」読み始めたが、調べるほどに不思議なことや分からないことに突き当たる。まあそれが自分自身の勉強になっているのだが。

◎これは何の花だろうか?草むらから顔を出す大きさ10cm位の花、良く見ると各々の花には小さな蜂が蜜を採りに来ている、余程虫に好まれる花らしい。