菜の花と菜種油あれこれ

厚狭毛利家代官所日記に書かれている「菜種油トラブル」の前書きです。

私の生まれた村では子供の頃、稲の裏作としてかなりの田んぼで菜の花が栽培されていたように記憶している。
この菜の花から取れる菜種を搾って食用の菜種油(なたねあぶら)にするためである。

家の庭には筵(むしろ)を敷いてこの小さな粒の菜種を乾燥させていた。
菜種油を搾ったあとに残るのが油粕(あぶらかす)で、これは有機肥料として有用で、昔の記憶から私は今、野菜作りの元肥(もとごえ)として、堆肥と共にこの油粕を使う。
現在野菜作りに使っている油粕

江戸時代この菜種油は人力や水車を利用した搾り技術の向上で、夜の灯火に革命をもたらせた。
それまでの灯火油は、えごま油や鯨油などが主で、値段が高く上流階級の使用が中心であり庶民は闇夜の生活が普通だった。
それが菜種油の普及で行灯(あんどん)の灯りが庶民に夜の時間を活用する生活を与え、夜なべ作業などが可能になった。

この為幕府は生活必需品となった菜種油を同用途の綿実油(めんじつゆ・綿の種から採る油)と共に厳しく統制していくことになる。
特に大量消費地である江戸、京都、大阪の灯油確保が重要課題であり諸藩に増産と江戸、大阪への廻送を督励した。

西国では大阪に種物問屋、兵庫一帯は油搾り業が盛んになり、各藩は地元自給油の他は脇売り(他地域への販売)が禁止され、全ての菜種や綿実の兵庫送りが指示された。

萩・毛利藩では幕府の統制に応じるために専売制を敷き免許株の持ち主に限って菜種の集荷と加工を許可した。
「山陽町史」によると文政8年(1825)厚狭市(あさいち・現在の厚狭本町辺り)の油屋は4軒有ったと記されている。

厚狭毛利家代官所日記にはこの菜種油の統制に関するトラブルが書かれており次回に載せる予定。

◎全く余談だが、与謝蕪村の心に残る俳句をひとつ。

「菜の花や 月は東に 日は西に」

今から15年以上前、中国・上海に駐在していた折、休日を利用して郊外のゴルフ場に行き、帰りの車の中でこの俳句を想い浮かべるしかない場面に出会い、自然にこの俳句が口をついて出てきた。

どこまでも続く一直線の道路の両脇に広大な黄色い菜の花畑、白い満月が東に、陽は西に傾きつつあった。
異郷の地で蕪村と同じ景色を見ているという忘れられない感動があった。

◎小学校のフェンスの下、ブロックに頑張る健気な花。